瑠璃が靫負所で性別を男と偽るための鬼門だったのは主に風呂だった。

 瑞穂の風呂は普通蒸し風呂だが、汗水たらし泥まみれになって働く武官の汚れなど、蒸したくらいで落とせるわけが無い。つまり、〈壇〉のような田舎で風呂と言えば川の水を使っての行水のことだった。寒さの厳しい秋から冬は水を湧かして湯に浸かるのが常だった。

 裸の付き合いとなると性別を偽った瑠璃には難しい。入所直後から先輩衛士達に当然の様に風呂に誘われ続け、その度に言い訳を考えるのが苦痛だった。特に混じって誘う朱利は、毎日言い訳を考えている瑠璃を面白がっているとしか思えなかった。


 そして、初日に興味本位でじろじろ見られたらしい朔も風呂をひどく嫌った。彼と瑠璃は仕方なく小屋に持ち込んだ盥の水で簡単に体を拭くだけだった。

 しかし、暦では秋とはいえ日中の暑さも残る。厳しい訓練で埃塗れになるだけでも不快なのに、汗だって大量にかく。外見は少年であれ、中身はうら若き乙女である瑠璃は、入浴しないわけにはいかないしと悩んだ。そうして考えついたのは、朔と共に終い湯を使うことと風呂の掃除を是近に命じてもらうことだった。


 夜中の風呂で、朔と瑠璃は、皆が入浴した後の大きな湯桶にこびりついた湯垢を、たわしで擦り取り磨き上げる。結構な重労働だ。皆が嫌がる仕事のおかげで二人を風呂に誘う人間はいなくなった。その際に朔は瑠璃を見張りに立てて一人で遠慮なく入浴したが、彼女は終い湯で髪と顔と手足だけを洗って、他は濡れた布でこっそり拭いた。朔が覗くとは思えないが、他に誰が見ているかわからないし、服を全て脱ぐのには抵抗があったのだ。


 そんな瑠璃のこまごまとした努力のせいか、はたまた朔や周りの人間達が鈍いだけなのかわからないが、瑠璃の性別は朱利以外に露見することもなかった。そして肝心の朔の正体は瑠璃と是近以外に知れることもなく、忙しく体力的には辛いけれど、ごくごく平和な日々が続いた。


 そうして〝揖夜〟と〝暁〟がようやく壇ノ団に馴染み、朔が宮を脱出して二月が経とうとしていた頃だった。

 長月ながつきとなったばかりのその夜、夕食の片付けを済ませた瑠璃は、下腹部に違和感を感じて慌てて部屋に引き籠った。そして暫く厠に籠った後、そのまま一人褥に横になる。手に守り袋を握りしめると密やかに呻いた。

 武具の整理を終え帰ってきた朔は寝込んでいる瑠璃に驚き、すぐに是近を呼びに走ろうとした。しかし瑠璃が大丈夫だからと引き止めると恐る恐る傍に座って顔を覗き込んだ。

 そして青い顔で汗をびっしょりかき、腹を庇うように踞る瑠璃に更に仰天した。


「……大丈夫!? 悪いものでも食べた?」

「だいじょうぶ…………なんでもないから、放っておいて」


 瑠璃は腹を押さえてじっと耐える。この痛みは朔には絶対に理解できないのがわかっていたからだ。


(しばらく来てなかったから、すっかり忘れてた……)


 瑠璃の月のものは順調とは言えず、いつも忘れた頃にやってくる。二月ほど来ないことも普通で、しかし来たかと思うとそれは重い。一日寝込むことが多かった。


「是近には言った? 明日の訓練は無理だろう?」


 朔が心底心配そうに瑠璃を気遣う。その温かい声色に、二人で一緒に転んだ時でも彼はまず瑠璃のことを気遣ってくれたのを思い出す。自らが膝から血を流していても、瑠璃の怪我を気にした。――昔から優しいのだ、朔は。

 思い出して微笑むが、それはすぐに痛みに押しつぶされた。ひと際大きな鈍痛の波が来て、瑠璃が呻くと朔は綺麗な顔に焦躁を浮かべた。


「是近を呼んでくる」

「いいから。大事にしないでくれ。長官に怒られるのはいやだ」


 月のもので苦しんでいるなどと是近に知られれば、きっと追い出される。こんなところで脱落など絶対にしたくない。

 朔は苦しみながらも必死で拒む瑠璃に、結局是近を呼びに行くことをやめた。そしてうつ伏せで踞ったままの瑠璃の背に手を乗せた。最初はこわごわと、なんだか大型の動物に触れるような辿々しさで。そして瑠璃が体を固めると、安心させるように優しく背をさすりだした。


「な、なにする、の」


 瑠璃が裏返った声で尋ねると、朔は励ますように微笑んだ。


「昔さ。お腹が痛い時に、こうしてもらったんだ」

「…………ありが、とう」


 ぱっと思い浮かぶものがあったけれども、誰に? とは問えなかった。今は痛みでそれどころではなかったのだ。

 瑠璃は朔の優しい手に身を任せる。


「それにしても――暁は、意外と細いね」


 朔がふと思いついたように言って、瑠璃は飛び上がりそうになり、


(ばれない? ばれてない!?)


 慌てて手を振り払おうと身じろぎする。


「も、もう大丈夫だから」

「いいから、力抜いて。息を大きく吐いて」


 珍しく強引に彼に言われ、言う通りにすると、ギリギリと締め付けられる体が痛みから解放された。息を吐き切ると、強ばっていた筋肉が緩み、びっくりするほど楽になった。息を止めていた分だけ、苦痛が大きかったようだ。

 しかし――瑠璃は顔を上げられない。赤くなっているのが自分でもわかるくらいに顔が熱かったのだ。

 朔の手は昔と同じように温かかった。そして、大きくなっていた。優しく背を撫でられるうちに、瑠璃は痛みから解放され、まどろみだす。



 いつしか目の前では幼い瑠璃が朔の背中を撫でていた。

 母達は優しい顔で瑠璃に寝なさいと言ったけれど、苦しんでいる友達を瑠璃は放っておけなかった。懸命に母の真似をすると、彼女達は「まるで、瑠璃が朔のお母さんみたいね」とくすくす笑った。それが誇らしくて瑠璃は何度も彼の背を撫でたのだ。痛みを訴えるのは腹であるにもかかわらず。


『あたしがついてるからね。もうすぐ良くなるからね!』


 瑠璃は必死で背をさすった。

 やがて小さな手は大きな手に成り代わり、さする者とさすられる者が入れ替わる。



 次に目を開いた時にはすでに夜が明けていたが、瑠璃はまだ夢の中にいるのだと思った。朔がすぐ傍に眠っていたからだ。

 見た夢をぼんやりとでも覚えていることは珍しい。だからこそ、余計に今も夢の中なのだろうと思える。

 朝の白い光の中、長い睫毛が頬に影を落としている。瑠璃はその寝顔に魅入った。


(ああ、やっぱり綺麗な、ねがお…………)


 目覚めるのが勿体なく思った瑠璃は、もう一度目を閉じる。そして違和感に気が付いた。目を閉じたら幻が消えた。――その意味は。


(ん?)


 瑠璃はもう一度目を開く。そして目を擦る。


(夢じゃ、ない?)


 瑠璃の頭の中の靄が晴れかけた時だった。


「二人とも起きてるか?」


 がらりと遣り戸が開いた。現れた是近の顔が見る見るうちに鬼の形相に変わっていく。

 直後「おまえら何してる――――――!?」という怒鳴り声が容赦なく響き渡る。瑠璃達の部屋だけでなく靫負所全体に響き渡る大声は、壇ノ団、夜明けの第一声になった。

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