朱利の言った通りに、翌日から二人は壇ノ団の一員として鍛えられ始めた。

 体力に自信があった瑠璃だったが、男とどれだけ体力が違うのかをまざまざと感じさせられた。相手をするのが男の中でも体格の良い朱利相手だというのもあるが、早くも自信喪失した。その上、一緒に訓練を始めた朔にあっという間に追いつかれて、さらに落ち込むことになった。

 最初は剣術の訓練。これは瑠璃の地道に積み重ねた努力もあって朔に負けることはなかったが、同時に始めた弓の訓練では初日から水をあけられた。


「揖夜は弓の方が向いているな」


 朱利が感心したように口笛を吹いたのは、基礎を叩き込まれて十日ほどしたころだった。瑠璃も悔しく思いながら頷く。それほど天性のものが感じられた。一緒に始めたとは思えない。

 弓を持たせてもらえたのは三日前。瑠璃がたわむ長弓に苦戦している間に、朔は既に的に向かっていた。すっと伸びた背は弓を引き分けても全くぐらつかない。薄い水干の下の背中が綺麗に分けられて、腕が力を蓄えて張りつめる。糸が切れるかのように腕がしなり、矢が放たれる。飛んだ矢は丸い的の中心に吸込まれる。その日射た矢のほとんどが的に当たるか掠っているという、初心者とは思えない的中率は、たちまち靫負所の中でも話題になった。

 一方瑠璃は弓手(弓を持つ方の手)――左手親指の付け根にできたまめに苦しんでいた。

 このまめは初心者が作りやすいらしく、朱利が言うには「へたくその証拠」だそうだ。上手な者は弓が手の中で滑らないのでまめもできにくいらしい。


「痛いし、悔しい……」

「握り過ぎなんだ。もっとそうっと――鳥の卵を包むようにしなけりゃ駄目なんだけどなぁ。まあ、最初は皆こんなもんだけど。そのうち上手になるよー」


 隅にあった休憩用の畳の上で、朱利がそう慰めながら清潔な布を巻いてくれるが、それでも弓を持つと結構痛い。隣に今日の分の訓練を余裕でこなした朔が休憩に戻ってくると余計に落ち込んだ。朔の手にはまめなどできていない。


「何か、前にやっていたの?」


 焼き餅を手に取った朔に朱利が尋ねた。


「僕は、何もしていなかったよ」朔は相変わらず飄々と答える。「何もさせてもらえなかった――が正しいけどね」

「ふぅん、坊々だったわけね」


 朱利はからかうけれど、朔は怒ることもなく頷いた。


「うん。家は裕福だし、父は僕に何もさせなかったよ。剣術だって月に一度教えて貰うだけだったし、それ以外では刀どころか懐剣さえも持たせてもらえなかった。あらゆる危険を排除したんだ。あれをしては駄目、これをしては駄目で窮屈だったし、このままじゃ一人で生きていけないんじゃないかって思っていた。だからこうして家を出られて嬉しいよ」

「そんな風に言う坊々も珍しいなぁ」

 朱利はからからと笑う。

「まぁ、家を出たいって気持ちはわからないでもないけどね」

「そういえば、朱利はどうして瑞穂にやってきたんだ?」


 ふと朔が問い、瑠璃も前々から抱いていた疑問に興味を抱いて朱利をじっと見つめた。

 朱利は首をひねって唸る。


「うーん、家から追い出された」

「はぁ?」


 あっけにとられる瑠璃の前で、朱利は懐かしそうに目を細めた。


「もう十年前になるかな。俺が十のときにさ、食うに困った親が末っ子の俺を山に捨てたんだ。瑞穂に行けって。俺も家にいても飢え死にするだけだってわかったから、必死で山を――国境を越えたよ。そして頼み込んでここに転がり込んだんだ」


 瑠璃はその話を聞いたことがあるような気がした。瑠璃が密かに憧れていた武者の話によく似ている。


「最年少の十歳で入所したってこと? つまり――」

「有名だろ? 長官から二本取ろうとした子供のこと。――あれは俺だよ」


 さらっと言われて瑠璃は目を丸くする。


「あ、ああ! あの噂の!」


 嘘! と思うと同時にものすごく腑に落ちた。手合わせをしていてただ者ではないと思っていたのだ。


「俺、必死だったんだよ。とにかくお腹は空いたし、寒いし。まだ死にたくなかったんだ」

 朱利は軽く言うけれど、話の内容はかなり壮絶だ。

「何、その噂って?」


 朔が尋ねるので、瑠璃は朱利の武勇伝を教えることにする。そうしながらも残念な気持ちが拭えない。


(……も、もっと、なんていうか生真面目な人、想像していたのに)


 というより、それだけの腕前を持っていたならばさっさと出世していると思っていた。庶民の期待の星がまさかこんな辺鄙な場所で燻っているなど夢にも思わない。


「なにー? 暁ちゃん、そのがっかりした顔」

 朱利は気安くそう言って瑠璃を睨む。

「だ、だって……僕、その人に憧れていたのに……なんだか残念で」

「あ、ひどっ! そこは否定するところ!」

「だって、こんな軽くて不真面目な人だと思わなかった」


 正直に漏らすと朱利が頬を膨らませてふて腐れるが、端正と言っていい顔にはまるで似合っていない。それが余計に残念で瑠璃はさらにため息を重ねた。


「ふ」


 隣から聞こえた息を吐く音に、瑠璃は朔も呆れてため息をついたのかと思ったが――直後目を見開く。


(あ、笑っている――!)


 朔がわずかな時間だったけれど、そしてかすかな笑みだったけれど、確かに笑っていたのだ。

 この間のような卑屈な笑みではない。腹の底から飛び出した軽やかで明るい笑みだ。瑠璃は体の血が興奮で滾るのがわかった。

 すると、朱利がからかうように声を上げた。


「あ――揖夜、そんな顔人前で――特に女の子の前でしない方がいいよー」


 朱利はなぜか瑠璃の方をじっと見つめてにやにやと笑っていた。


「間違いなく、押し倒される」


 その言葉に朔の顔があっという間に曇った。さっきの晴れ間が嘘みたいに。まるで急に立ち上がった雲に日が隠れてしまったかのようだと瑠璃は思った。


「どうかした? 俺、何か悪いこと言っちゃったか? いや、あんまり綺麗だったからさー、ええと、一応冗談のつもりだったんだけど」

「――別に気にしてない。忠告、感謝するよ」


 朔は朱利からぷいと顔を背けるとそのまま射場を去る。瑠璃と朱利も彼を追いかける。


「どうも、訳ありっぽいね」


 朱利がぽつりと呟いて瑠璃を見たが、首を横に振るしかできなかった。瑠璃は何も知らない。一人で抱え込んで何も語らない朔を悲しく思う。

 ふと風に項を撫でられて射場を振り返ると、そこでは山から流れ込んだ真赭颪ますほおろしが木の葉を舞いあげていた。

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