瑠璃達はその後、荷馬車を借り上げて、なんとか〈壇〉に辿り着いた。最初馬を借りる予定だったが、宿場町には手頃な値の馬がおらず、予算の関係で――この逃亡資金は全て菖蒲が都合することになっているのだが――一頭しか用意できなかったのだ。


 そうして辿り着いた靫負所で、結局揖夜と名乗ることにした朔と瑠璃は、さっそく皆に紹介されることとなった。

 瑠璃も朔も南部の受領の息子だということになっているが、何度か試験を受けている瑠璃は、自分に見覚えがある者がいないだろうかとどぎまぎしながら皆の前に立つ。

 不安を抱えて見つめた是近は、とにかく朔のことばかりを心配して、瑠璃については全く心配していない様子だった。その理由は皆の前に立った後にすぐにわかった。


「茶髪が〝揖夜〟、金髪が〝暁〟だ」


 是近が紹介したとたん、辺りがどよめいた。


「女だ! 女だろ、あれ絶対! すっげえ美女!」

「嘘だろ。男だって!?」

「髪は短いか。背は割とあるし……胸も……絶望的にないように見えるけどなぁ」

「風呂でも覗くか」


 ざわざわと色めき立つ男達の視線は瑠璃ではなく、全て朔に注がれている。


(……あんまりよ)


 ばれなかったのは一安心だったけれど、さすがに悔しい。小さな自尊心は傷ついた。複雑過ぎて頭を抱え込みそうになる瑠璃の隣で、美女と称されて悔しかったのか、朔はむくれた顔をしていた。


「あー、二人には……そうだな、とりあえず」


 是近は少し悩んだ後、辺りを見回すと、一人の背の高い男に目を留めた。


「――朱利。おまえが指導してやれ」

「ご指名ですかぁ? 面倒くさいなぁ」

「その締まりのない応答はやめろ。下の者に示しがつかない。そんなだから万年大尉なんだ。これ以上そこでのさばるつもりなら、いっそのことクビにするぞ」

「えー、そんな」


 その軟弱な応対がなければ美男だと瑠璃は思った。父と並ぶくらいの背丈の男というのは滅多に見たことはないし、顔立ちも整っている。

 瞳は肥沃な大地の色。濃く凛々しい眉に、通った鼻筋、甘い笑みを浮かべた薄い唇。何よりも目を引くのが、焼かれた赤銅のような艶のある赤髪。瑠璃の母親を思い出させる色だった。長さもまばらで手入れのされていなそうな髪だというのに、それが逆に女性的な色香を醸し出している。下手すると無骨で冷徹な印象さえ残しそうな男に華やかさと優しさを与えていた。朔とは全く別の――いやむしろ女性的な外見を持ち雰囲気の刺々しい彼とは全く逆の――種類ではあるけれど、確実に人目を引く容姿だった。


(二十歳くらいかしら?)


 ぼうっと見つめていると、その朱利と言う男が瑠璃に近づいて眉をひそめる。朔に見とれずに瑠璃を見ているのは彼だけかもしれない。彼は暫くじろじろと瑠璃の顔を見つめた後、さらに視線を下ろして「へえ。おもしろいね」と呟いてにこりと笑った。


「おい、朱利。話がある」


 是近が遮ると男は一旦瑠璃から目を逸らす。緊張の糸が切れ、冷や汗がどっと流れ出す。


(む、胸見てなかった?)


 布を撒いた胸には凹凸はないはず。だけどなんだか透けて見られたような居心地の悪さを瑠璃は感じていた。




 堀と塀で囲まれた靫負所の中には古い小屋がいくつも並んでいて、小さな街を作り出しているように見えた。朱利が言うには、役割をもった建物の他、外れの方には衛士の寝泊まりする小屋が建てられているそうだ。自分の家から通える者も多いが、家が遠く住み込む者も多いためだった。


 朔の逃亡生活のために瑠璃達三人はしばし靫負所に住み込むことになった。長官である是近は、中央にある大きな建物内に局を持っていて、そこに寝泊まりすることになったが、瑠璃と朔は下っ端らしく靫負所の外れにある掘建て小屋を与えられることになっていた。

 それぞれの小屋を手際よく案内しながら朱利は二人に話しかけた。


「このでっかいのが台所。で、厩はあっちね。武器庫はその奥。二人にはまずは馬の世話と武具の手入れを頼むことになるけど、他にも何か得意なものがあればそれを任せるよ」


 瑠璃は少し考えて答える。


「私は、ええと、料理を」

「珍しいな。でも助かるよー。おばちゃんの飯もいいけど、たいがい飽きちゃったし。じゃあ、揖夜は?」

「僕は、得意なものは何もないよ」

「堂々と言うことじゃないだろ、それ」


 飄々としている朔に朱利は呆れている。


「しょーがないなぁ。じゃあ、暁ちゃん、きみは台所が持ち場ね。うーん、で、揖夜、おまえには掃除でも頼むかな」


 瑠璃は少々気になって遮った。


「え、ええと、大尉。なんで私はきみで彼はおまえなんですか」

「朱利って呼んでくれよ。同じ釜の飯を食うんだし」


 朱利はにこやかに瑠璃に微笑んだ。その目には朔の姿は全く映っていないように思えて、瑠璃は隣を気にしつつも話を進めるために彼の要望に応えた。


「ええと朱利さん」

「朱利。皆そう呼んでいる。あと『です』とか『ます』とか丁寧なのもやめてくれる? 堅苦しいの嫌いなんだって」


 朱利は口調は柔らかくとも強引に言った。


「しゅ、朱利、だからどうして」


 瑠璃が顔を引きつらせながらも問うと、朱利は満足そうに笑った。


「そりゃ可愛い方が好きだからに決まってる」

「え――――す、好きって」


 どういう意味? と瑠璃の肌にぞわっと鳥肌が立ち、


「君、まさか男色の気があるのか?」


 朔が嫌悪の目で朱利を睨むと、朱利は肩をすくめる。


「あれ、揖夜って随分鈍いんだね。俺、すぐわかったのに」

「は? 何のこと?」


(わかった、わかったって――?)


 瑠璃は戸惑い、朱利を見つめる。

 朱利は肩をすくめるだけで、朔の質問には答えない。


「あーあ、暁ちゃんと同じ小屋っていいなぁ。……俺も一緒にして欲しいのは山々なんだけど、長官に殺されたくはないしなぁ」

「何を言っている?」


 朱利の意味深な言葉に朔は首を傾げ、


「え、ええと朱利」


 瑠璃は焦って先ほど湧いた質問を投げつけた。


「わかったって、ええとどういう意味?」


 朱利はねたばらしとでも言うように、にやりと笑うと瑠璃の耳元で囁いた。


「君、靫負所に毎年来ていた子だよね? 今年合格できなくって残念に思ってたから、伝って聞いて驚いたんだよ」


(ああああ、既にばれてる!)


「だいじょーぶ。俺、誰にも言わないからさ。つまり、訳ありなんだろ? でも髪は勿体なかったね。あ、でも蘇比に行けばまだ結婚できるから大丈夫。うんうん、青い実も美味しそうだけど、やっぱり熟するまでは待とうかな。食べごろになるまではしっかり守ってあげるからね」


 なんだかいかがわしくなる話題に困惑して瑠璃が朱利から目を逸らすと、朔が眉をひそめて聞いているのを見つける。瑠璃は慌てて話題を打ち切ろうとするが、朔の興味は瑠璃から外れていた。


「蘇比に行けばって……君、蘇比の者なのか? だけど……確か彼の国は先の戦から瑞穂とは国交を閉じているはず」


 朔が問うと、朱利は肩をすくめて屋根の向こうに見える西の山脈を見た。


「まあ色々あってさ。瑞穂はいいところだけれど、大陸の影響が強いくせに、伝統にもうるさいから大変だよね。髪だって伸ばすのうっとうしいしー」


 さらっと流されて朔が難しい顔をしている隣で、瑠璃は尋ねる。


「あっちって、髪が短いのが普通なの?」

「蘇比だけじゃない。大陸は元々そうだよ。この瑞穂が懐古主義なだけ」

「へえ」


 そこで丁度宛てがわれた小屋の前にたどり着いた。朱利が部屋の遣り戸を開くと目の前にクモの巣が現れ、


「ひっ――」


 瑠璃は悲鳴をかろうじて飲み込み、地面に落ちていた木の枝で払った。中を覗くとどこもかしこも真っ白でずいぶん埃っぽい。朔が目を丸くしてしばし見入っていると、朱利がへらりと笑った。


「掃除は各自やることになってるから頑張ってねー」


 瑠璃は腕まくりをして箒を探す。朔も窓を開けに行く。と、ふいに朱利が後ろから声をかけた。


「じゃあ、暁と揖夜」

「え?」


 慣れぬ呼び名に二人の反応が遅れると、朱利はにやりと笑う。


「明日からしごくけど、とりあえず今日はゆっくり休んでおいて」


 二人が頷いて掃除を続けようとすると、後ろからからかい混じりの声が聞こえた。


「それにしても、きみたち、本当の名前は何ていうのかな?」




 本当の名前ですよ――朔がさらりと答えると、朱利はあっさりと引き下がった。別に問いただそうというわけではなさそうだ。

 小屋の戸が閉まったとたん、瑠璃と朔は大きく息を吐く。自分でも笑顔が強ばっているのがわかり、恐る恐る朔を見ると、笑顔だった彼も今は眉が寄っている。


「油断ならない奴だな。是近もどうしてあんな男に僕たちを任せることにしたのか」


 朔がぶつぶつと言うのを瑠璃がじっと聞いていると、彼は不審そうな顔をした。


「暁? 聞いてないの?」


 瑠璃は思わず飛び上がる。まさか自分に話しかけていると思わなかったのだ。今の今まで彼が彼女に話しかけてきたことはなかったから。


「き、聞いている……聞いています」


 思わず、聞いているわと言いそうになって、慌ててそれを飲み込んだら、声は甲高く裏返り、必要以上に素っ気なくなった。

 男の子みたいなしゃべり方は全然身に付いていない。それに、その話し方が果たして皇子に対して適切なのかもわからない。あたふたとする瑠璃に、朔は人差し指を薄い唇に当てる。


「その言葉遣いはおかしいよ。僕と君は単なる同僚だ」

「は、はい」

「じゃなくて、うん、くらいがいいんじゃないか? 僕が話すように話せばいいよ。丁寧にするのは是近相手だけでいい。僕に対して堅苦しいのはここでは不自然だし、危険だ。ほら、さっき朱利にはできていただろう? あんな感じでいいと思う」

「う、うん」


 朔が話すように、相手を朱利みたいに――瑠璃が心に留めながら頷くと、朔は話を元に戻した。


「で、さっきの朱利の話だけど」

「ええと……長官が朱利に任せられた理由? 確かに、なんでなんだろう」


 瑠璃は頭を切り替える。早速口調に気を付けながら話す。


「まず隣国と国交が途絶えて百年は経つ。それなのに、どうして蘇比の者が瑞穂にいるのか」

「そういえば、そうだね……言われてみれば、怪しいかも」


 瑠璃が深刻な顔で考えこむと、朔は言った。


「ま、怪しいって言うなら君もなんだけどね」

「怪しい? ぼ、僕が? ど、どうして!?」


 突然の指摘に瑠璃の声が裏返る。


「まず暁というのは朱利が言ったように偽名だろう? この間是近が僕に字を用意しようとしたとき『殿下に仮名が必要ですね』って言っていたから。君もそうなんだろうなって思ったんだ」


 鋭い指摘に瑠璃は喉が干上がった。生唾を飲み込む彼女の前で朔は淡々と続ける。


「それに、君が是近に付いてきたのは今回が初めて。じゃあ、つい最近随身になったんだろう? それなのにどうして是近に僕を任されるほどに信頼されているのか。僕はまずそれが知りたいよ」


 朔が幼い頃から随分聡かったことを思い出し、瑠璃は冷や汗をかいた。是近は深く考えなかったかもしれないが、瑠璃の正体を知らねば当然の疑問だった。


(ちょっと、どうするのよ、父さん!)


 そこまでの打ち合わせは済んでいない。自分で考えるしかない。冷や汗を拭いつつ、瑠璃は良い言い訳を探った。


「え、ええと、母の伝で、昔からの知り合いなんだ」


 一応、嘘ではないと思う。あまり多くを語ると嘘というのは露見しやすい。瑠璃はそれだけ言って口をつぐんだ。


「ふうん、この辺りの出身なんだ」

「う、うん」


 黒い瞳が瑠璃の目を覗き込む。漆黒の瞳――それは星の浮かぶ夜空のようだ。長い睫毛は相変わらずだけれど、目尻がわずかにつり上がったその目がたたえる光は鋭く、しかしどこか妖艶だった。見つめられ、焦りとは違うもので体が火照りだすのを感じた。初めて感じる感覚に戸惑う。これは――とても直視できるものではない。

 もしかして、わかってやっているのだろうか。動揺を誘って、答えを誘導する気だろうか。徐々に耳が熱くなるのがわかって瑠璃は焦った。


(お願いだから、その目で見ないで――!)


「どうかした?」


 不審そうに寄せられた眉さえ、辛辣な笑みを浮かべた唇さえ、瑠璃の心臓を跳ねさせた。


「な、なんでもない!」

「そう?」


 彼は瑠璃を見つめるのをやめない。じっと彼女を観察した後、改めて問う。


「ところで君は何歳なの。僕より年下? 背も低いし」


 瑠璃は目を泳がせながらとっさに考えた。確かに体格は男と比べて随分華奢だった。胸を隠せばいいというものではない。男の子は大人になるにつれ、背も伸びるし、肩幅は広くなるし、それから声だって低くなる。それは同じ年齢の朔を見ればわかりやすい。

 瑠璃は大人の男にはどうしてもなれそうにないと感じ、近所の男の子たちを思い浮かべて、適当な年齢を言った。


「あ、ええと……十三歳です」

「ふうん。十三歳、か……なるほどね」


 ですを強調されてビクリとする。だけど朔は一応納得したらしく、口をつぐんだ。瑠璃は胸を撫で下ろす。そしてこれ以上の追及を避けるために、話を早々に終わらせることにした。


「も、もう休もうよ。明日は早いし、長旅で疲れたし。寝床、準備するね」




 みすぼらしい屏風を間に挟み、二組の薄い衾を木の床に直接敷く。朔は珍しそうに薄い衾を見つめていたが、横になったとたんに寝入ってしまったようだ。


 屏風は、是近がそわそわと様子を見に来たときに据えて行ったものだった。最初衾を普通に――一間しかなかったので、是近と雑魚寝する時と同じように――並べていたら、仰天されて小屋の端と端に離された。


「殿下に失礼だろう」と囁き声で怒鳴られたけれど、朔本人は不思議そうな顔はしていたけれど「別に構わないよ」と特に怒っていなかった。憤っているのは是近一人。瑠璃は思わず笑いそうになった。


 朽ちた壁の隙間から月光が差し込んで、小屋はぼんやりと明るかった。瑠璃はなかなか寝付けない。それは月明かりのせいだけではなさそうだ。朔が傍にいることで、自分が興奮しているのがよくわかった。

 褥を抜け出して窓をそっと開けて外を見る。ふと後ろを振り返ると、そこでは朔が小さな寝息を立てていた。


 月明かりは美しい顔をさらに際立たせている。しかし鋭いまなざしがない分だけあどけない。その寝顔は瑠璃に昔を思い出させた。二人は遊び疲れていつの間にか一緒に眠っていたことなどしょっちゅうだったのだ。


 だが、衾の端から覗く肩はいつの間にか骨張って広くなっていたし、腹の上で組まれた手も随分大きい。彼女が知っていた幼い男の子は、いつしか大人になりかけている。そして瑠璃もまた。そう考えた途端、胸がきしんだような気がして、瑠璃は胸をそっと押さえた。


 唇だけを動かして声を出さずにその諱を呼ぶ。

 瑠璃は胸に広がった温かいものを息と共に吐き出すと、褥に再び寝転んだ。冷たくなった衾が、火照った肌に心地よかった。

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