宮から麓までは牛車を借りた。それでも、途中の段差では一度荷を降ろしてまた乗せ直さなければならず、なかなかに重労働だった。なだらかな傾斜を慎重に下りながら、瑠璃は独り言を言う。


「髪が短くても女に見えるのね」

「見る者が見ればな。いいからしっかり担げ」


 あの後瑠璃は胸に布を巻いた。上衣も着込んでいたし、第一こんなささやかな胸だ。気にするほどないと思っていたけれど、帝にあんな風に言われて急に心配になった。

 是近が何も言わなかったのは、彼には女に見えなかったか、それかいっそ早くばれて追い出せればそれでいいと考えているか。少しふて腐れているところを見ると――後者の可能性が高い気もするけれど、それならばなぜ帝からあのように庇ったのだろうか。

 悶々と考えながらも、瑠璃は足に力を入れて、しっかりと腕の中の〝箱〟を支える。落としては大変だ。何といっても、大事な人が詰め込まれている。


「ねえ、これ、起きたら怒るんじゃない? さすがに」

「それどころじゃないんだ。しょうがない」

「あたしだったら酔って吐きそう」

「じゃあ、図太いおまえとは比べ物にならないくらいにか弱い殿下は、もう吐いていらっしゃるだろうよ。とにかく麓までは我慢していただくしかない」


 その言い分に腹を立てつつ、瑠璃は箱に詰め込まれた病人を想像して気の毒になる。

 牛に引かせた大きな木箱は〝棺〟だ。それに生きたまま入るのは、瑠璃はごめんだと思った。だけど、誰にも見咎められない大きな荷物となると、この箱しかなかったのだった。死者は穢れとして忌まれるため、あえて覗いたりしないし、まず、宮殿への〝入〟よりは〝出〟の方が遥かに警備は緩かった。


(ああ、早く出してあげたい……)


 そういえば、どのくらい大きくなったのかしら――そう思ったとたん、急に胸が騒いだ。

 そうだ。なぜか六歳の子供が出てくるような気がしていたけれど、瑠璃が十六歳になったということは、彼の方も十六歳になったということ。

 布に包まれたまま箱に詰め込まれたので、わずかにこぼれた髪しか見えなかった。けれど、是近が抱える時に顔をしかめるくらいではあったから大きくなっているのは明らかだ。


(あ、なんか……妙に緊張してきちゃった)


 昔、彼が遊びに来る時期が近づいた時のワクワクした気持ちに少し似ている。だけど、それに加えて気持ちが華やいでいるのがわかった。顔を赤らめた瑠璃に是近がすかさず釘を刺す。


「おまえらは、初対面なんだからな? 忘れるなよ?」

「わ、わかっているわよ」

「あとその口調。おまえは男で、俺とおまえは単なる上司と部下だ」

「……わ、わかりました」


 是近の鋭い視線に刺されて、瑠璃の気分が瞬く間に萎んでいく。


『ん……』


 かすかなうめき声が聞こえた気がして、瑠璃は体を震わせる。

「とうさ――」チロリと睨まれて慌てて言い直す。「長官、お目覚めになられたようです」

「もう暫く待て」


 箱の中から衣擦れの音がし始める。動揺しているのだろう、落ち着きなく箱の内部を叩く音がし始めた頃、ちょうど麓に廃屋が見え、是近が瑠璃に目で合図した。小屋の前に辿り着くと、道の端に牛車を止め、中の様子を確かめるために一度声をかける。苦しんでいたら大変だ。


「殿下? お目覚めになられましたか?」

『ここ、どこ? ……吐きそう』


 戸惑ったような沈黙の後に響いたのは掠れた低い声。瑠璃は聞き覚えのない声にどきりと心臓が跳ねるのを感じた。


「もう少しで着きます。どうかご辛抱ください」


 動揺を極力抑えながら、是近と共に箱を小屋の中に移した。




 箱から出てきた〝絶世の美少女〟を前に瑠璃は惚けていた。

 腰まである長い黒髪は耳の横で丁寧に編み込みが作られ、色とりどりの紐で見事に結われていた。肌は雪のように白いが赤い唇のせいで不健康に見えない。顔立ちはひどく整っていて、化粧を施されていると見紛うくらい目鼻立ちの一つ一つの造作が華やかだった。その中でもひと際目立つ漆黒の大きな瞳。長い睫毛に彩られてその色を濃くしている。とにかく見たことのないくらいに美しい〝姫〟だった。


(……えっと、連れてきたのって――皇女様の方だった?)


 朔には檜葉ひばの宮という妹姫がいるのを思い出した。そういえば〝殿下〟としか呼ばれていなかった気がする。早とちりだったのだろうか――確認しようと是近を見ても彼の人は涼しい顔だった。


「殿下、ご無事で何よりです」

「是近? なぜここに? 僕は無事――だったのか? 今度こそ死んだのかと思った」

「僕?」


 違和感に思わず口を挟むと、麗しの姫君はこちらを睨む。


「君、誰?」


 冷たく睨まれて口をつぐむ。誰と言われてもどう答えて良いかわからない。というか、それはこっちの台詞だった。

 姫が是近を胡散臭げに見て、瑠璃も答えを求めて是近を見た。是近は自分で言えと目で促す。


「是近の随身の〝暁〟でございます」

「ふうん」


 少女は何の感情も込めずにそう言った。

 だが自己紹介は返ってこない。戸惑って泣きそうになりながら瑠璃は是近に目で訴えた。


(これは――一体誰なのよ!)


「ああ? どうかしたか?」


 是近は瑠璃の戸惑いに全く気が付いてくれない。仕方なく恐る恐る尋ねた。


「ひ、姫様――檜葉の宮様ですよね?」

(頷いて下さい――!)


 全力で瑠璃は願った。けれど――直後瑠璃は是近のげんこつを頭にくらい、姫にも凄まじく冷たい目で睨まれる。


「僕は、男だ」


(つまり、つまり……この子が……朔ってこと?)


 認めたくない現実を突きつけられ、瑠璃の目の前が暗くなった。


まゆみの宮――東宮であらせられる」


 是近が横から口を挟んで愕然とする瑠璃にだめ押しした。


「で、でも! ど、どうしてお召し物が女性のものなのです!」

「これは立派に男物だけど」


(そ、そんなわけないわよ……――)


 否定しつつ瑠璃はじっとその姿を見つめた。涼しげな白い紗の袍の下には紫と薄紫の袿が何重にも重ねられている。藤の花が咲いたかのように雅な色合いだった。確かによく見直せば形は直衣のうし指貫さしぬきだが、この人物がまとうと女性の衣にしか見えない。なぜ? そう考えて瑠璃は彼の髪に目をやった。


(あ)


 瑠璃のと同じとはとても思えない華やかな髪型を見て原因にすぐ思い当たる。形こそ一応角髪だが、長さが以前の瑠璃と同じくらいなのだ。それに男のようにもとどりを結っていないし、烏帽子えぼしも被っていない。元服前の童姿だった。


「た、大変申し訳ありません」


 彼は小さくため息をつくと、頭を下げる瑠璃から目を逸らし、是近へ目線を戻した。


「殿下、とにかくお召しかえを。ここからはすぐに発つことになっておりますので」

「発つって……まずここはどこなんだ」

「説明は後で」


 是近は彼を連れて障子で区切られた納戸へ案内する。

 手伝いをするのかと思いきや是近はすぐに出てきた。


「手伝わなくて大丈夫なの?」


 あれだけ複雑な衣を一人で脱ぎ着できるのだろうかと不思議に思いながら問うと「殿下は身の回りのことを誰にも任せられない」と、是近はわずかに複雑そうな顔をした。




 しばらくして出てきた彼は、瑠璃が故郷でよく見かける庶民が着るような衣を身に付けていた。生成りの単衣に枯れ草色の水干すいかん。どちらも綿でできていてごわごわしている。美し過ぎる顔があからさまに浮いていて、あまりにも似合っていない。何よりも女ほどに長い髪のせいで、一種異様な雰囲気が漂った。


(これなら、あたしの服を着せた方がよっぽど目立たないわ)


 瑠璃が不満を込めて是近を見ると、彼は困ったというように頭を掻いてとある提案をする。『命を守ることを最優先させる』という説得に朔はすぐに頷き、面々の中で戸惑ったのは瑠璃だけだった。



 腰まである黒髪がすきま風に揺れた。是近がその髪を手に取ると短刀の刃をあてる。ざくりと重たい音と共に、いくつかの黒い束が床に落ちた。


「こ、これ、本当によかったのですか……勿体ない」


 あまりにあっさりと切り落とされる髪の束に瑠璃は青ざめる。同様の場面を見せられた是近と菖蒲の衝撃を今になって知ることとなったのだ。瑠璃が動揺しつつ板間に落ちた髪の片付けをしていると、さっぱりした顔の〝少年〟が頭を振ってその軽さに目を丸くしている。


「軽い。これは楽だ。こんなに軽いものなのか」


 瑠璃と同じ感想を抱く朔に、是近は瑠璃をちらりと睨んでから答えた。


「以前から男児にしては長過ぎるとは思っていたのです。とてもお似合いです。しかし、その色は隠さねばなりませんね」

「ああ」


 朔は軽くなった髪の一房をつまむ。その指先の髪はどこまでも純粋な黒だった。


「茶の染め粉があります。よく洗えばとれるものですが、使ってもよろしいでしょうか。宮に戻られるまでこれでご辛抱願えますか」

「身を隠すのだろう? 皇子だとわからなくなれば何でもいいよ」


 軽く了承した朔の髪を早速染めながら、是近は思い出したかのように呟く。


「ああ、殿下にも仮名が必要ですね……しかし、名付けは苦手でして」


 朔は一瞬不思議そうに首を傾げるが、少し考えた後で小さく呟いた。


「〝揖夜いや〟と呼べばいい」

「揖夜? なぜ」


 是近と瑠璃は同時に眉をひそめた。その名は、彼の母親が眠っている場所――死者が行くという黄泉よみの国への入り口――の名前だったからだ。

 彼は口元だけでにこりと笑う。冷酷なまなざしに、辛辣な笑みに瑠璃は背筋を凍らせた。


「ほら、黒髪に黒眼ってなりだし。まるで黄泉からの使者のように不吉だろう。陰で〝揖夜の君〟と呼ばれていることも知っている。あんまりぴったりだから、改名しようかと思うことだってあるよ」


 言い終わる頃には彼の顔は卑屈さの滲んだ笑顔に変わっていた。


(こんな顔、幼いころは絶対にしなかったのに。どうして、あたし、もっと早く彼を助けに行かなかったんだろう)


 瑠璃は悔しくて、せめてと彼の言い分に反論した。


「黄泉からなんて、不吉だなんてことありません。殿下の黒はまるで夜空のようでとても美しいと思います! それに、」

「暁」


 思わず熱が入りそうになった瑠璃は、是近に遮られる。見ると朔は怪訝そうに瑠璃をじっと見つめている。初対面だということを忘れかけていた瑠璃ははっとした。

 是近は髪の束を布の袋に詰め込みながら、瑠璃に助け舟を出した。


「無駄口はそこまでだ。さっさと片付けろ。箒をもってこい。手でやっていては埒があかないだろう」

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