第二章 東宮の逃亡

「どうしておまえは女らしく大人しくしていないんだ」


 道中、瑠璃の少年のような角髪を見ては是近は馬を止めて嘆いた。もう何度目だろう、この不毛なやりとりは。瑠璃はひっそりとため息をつくと、是近を振り返った。


「無骨な父親に育てられたんだからしょうがないでしょ」

「いいや、きっと母さんに似たんだ。あかねも向こう見ずで無鉄砲なところがあった。そうだ、それでとんでもなく頑固だった。有無を言わせず周りを巻き込んで行く。人の言うことなんかちっとも聞かないんだ」

「じゃあ、余計にしょうがないじゃない。きっと母さんは娘が自分に似て喜んでるわよ。さ、早く行きましょ」


 涙の混じった愚痴を言う父親を適当な言葉でなだめたり、時には叱咤したりして瑠璃は必死で馬を進めさせる。そうやって、皇都〈伊吹〉へ辿り着いたのは三日後のことだった。




 馬を替えれば到着は多少早くなる。寝不足の体に鞭打って、五日の行程を三日に縮めたのだ。そんな疲れも、辿り着いた宮を前に吹っ飛んだ。

 山の中腹に建てられた見事な宮殿。大きな木造の本宮を中心に、それを取り巻く外宮が塀の役割を果たしている。そして外宮の外は植えられた伊吹の木々が整然と並び、その周りは切り立った崖だった。噂には聞いていたけれど、これほどとは。


(天然の要塞――これが、そうなの)


 都がこの地に遷移して百年以上経つそうだが、隣国蘇比が攻め入った時にもこの宮は無傷で済んだと父に聞いたことがある。

 見て納得した瑠璃は、その内側にも驚いた。

 本宮の敷地内には大きな殿舎が立ち並び、間を釣灯籠が吊るされた渡殿が竜のようにうねっている。その下には幻想的な庭が広がる。灯籠を反射して妖しくゆらめく池の周りには木や季節の花が植えられ、甘い香りを放っている。まるで天上の世界に迷い込んだようだった。

 圧倒され、あまりに場違いな自分に身を震わせる瑠璃に是近は言う。


「しっかりしろ。菖蒲様の顔を立てないわけにはいかない。とりあえず少尉に任命されるまでは俺の随身として付き添わせる。だが、妙な真似をしたらすぐにクビだ。追い返してやるから覚悟しておけ」


 宮に到着後ようやく嘆きの収まったらしい是近は、長官の顔で瑠璃に言い聞かせた。瑠璃は神妙な顔で頷く。


「どうやって連れ出すの?」

「主上にお願いすればいいと菖蒲様はおっしゃった。殿下の身の安全の為に陣営が整うまでの一時的な退避をと」

「どこに?」

「〈壇〉の靫負所が妥当だろうな。目の届くところにいて頂きたいから。だが、俺は長の仕事で手が空かないし、事情を打ち分けられる人間も少ないから……護衛は主におまえに任せることになる。あぁ……俺はこうなるのが嫌だったんだ」

「どうして嫌がるの。父さんだって朔のこと大事に思っているんでしょう?」

「その名を気軽に呼ぶな。誰が聞いてるかわからない」


 鋭く遮られて、瑠璃は驚き周りを見渡した。

 瑠璃達が今いるのは宮の中央に据えられた殿舎――仁寿殿じんじゅでんの奥の渡殿だった。

 宮中では花を肴に、月を肴にと毎夜毎夜宴が開かれているそうだが、今日の宴は特に大きい。七夕の星見が行われるらしく、夜も更けたというのに殿舎からは琴や琵琶びわや笙の音が絶えず聞こえてくる。かなりの人がそちらに集まっているようで、渡殿自体には殿舎入り口付近の見張りの衛士を除きほとんど人がいない。


「近くには誰もいないわ」

「ここが魑魅魍魎の住まう宮だと忘れたか?」


 ギロリと睨まれて、瑠璃は口をつぐむ。言われてみれば、渡殿の床下におどろおどろしい気配を感じるから不思議だった。

 ふいに是近は思い出したように手を打った。


「ああ、そうだ。名で思い出した。わかっていると思うが、おまえが〝俺の娘〟で〝幼馴染の瑠璃〟だということは、絶対に明かすな」

「え? なんで」

「もし目に留まったらめんど――」


 そこで是近は言葉を飲み込むと咳払いをする。


「いや、女はやめたんだろう? 何度も言うが、壇ノ団に女は要らない。あの場所は女の職場じゃない。狼の群の中に兎を投げ込むようなものだ。辞めさせられたくなければ、それは隠し通せ。彼は〝幼馴染〟が〝女〟だと知っている――つまり、瑠璃だとばれれば、壇ノ団を追い出す」

「じゃ、じゃあ……あたし、なんて名乗れば……」


 おたおたと戸惑う瑠璃に是近はあっさりと言った。


「一介の随身が名乗る機会もないと思うが。そんなことがあったとしても気にすることもない。彼はおまえの名など覚えていない。ま、男として仕官するのならばあざながあった方が便利ではあるか。瑠璃ってのは瑞穂じゃちょっと珍しいから、目立つだろうしな」

「…………」


 覚えていないという言葉に落ち込む瑠璃に、是近は容赦なく続ける。


「今更なんだ? ずっと言っていただろう? 普通六歳の頃の記憶などないと。もし覚えていたとしても、おまえ、名を呼んでもらったことなどなかっただろう?」


 是近の勝ち誇ったような顔を、瑠璃は頬を膨らませて睨んだ。

 彼は瑠璃のことを〝るう〟としか呼ばなかった。幼い頃、片言の言葉しか出ない時に〝り〟がどうしても言えずに、そう覚えたままだった。

 言葉がはっきり話せるようになった後も、自分の名前はああやって教えてくれたというのに、彼女の名を聞き直すことはなかった。彼は瑠璃にそれほど興味がなかったのかもしれない。


(あ、あぁ……あたし、ちょっと落ち込んできちゃったかも……)


 髪を切って、女としての将来も捨てて。そして、心の拠り所だった幼馴染との過去も封印しなければならない。

 じゃあ何の為に頑張ってきたのか。一瞬そんな考えが浮かんできた。

 しかし瑠璃はすぐに頭を切り替える。もともと見返りは望んでいないと、弱気を撥ね除けた。


(何の為に? 馬鹿ね。朔の傍にいられれば――朔を守れれば、それでいいじゃない)



あかつき


 是近が突然口にした言葉で瑠璃は現実に連れ戻される。


「え?」

「そうしよう。暁。おまえの仮の名だ。この辺りでは男児の名は月や星に関わる名が多い」

「ああ」


 そういえば彼も〝朔〟だ。名前の由来を彼は誇りにしていた。同じ太陽に因んだ名を瑠璃はくすぐったく思う。

 その時、ざわりと宮全体の空気が揺らいだ。仁寿殿の妻戸つまどから女が現れ辺りに散っていく。手には漆塗りの雅な膳があり、食事の済んだ後の空の器が下げられていた。女達がまとう美しい衣に瑠璃はうっとりと目を細めた。素材は絹だろうか。単衣の上に何枚もの鮮やかな色の袿が重ねてある。きっと宴に出た殿上人に侍っていたのだろう。


「……そろそろだな。宴もお開きだ。人目が消えてから動くぞ。殿下が部屋に戻られたらすぐに配置に入れ」

「わかった」


 瑠璃が頷いた時だった。宴が散会されたはずの殿舎で何かが割れるようなけたたましい音と大量の悲鳴が上がった。


「なんだ?」


 次の瞬間瑠璃の耳はかすかな言葉を拾っていた。


『――殿下!』


 直後、殿舎の妻戸がすべて大きく開かれ始めて、大量の人が簀子縁に飛び出してくる。その中を布に包まれていた一人の人間が抱きかかえられて北へと運ばれて行った。


(殿下、殿下って――)


 その呼び名が誰を差すのか気づいた途端、殴られたような衝撃を受ける。蒼白な顔で人の波を見つめていた瑠璃は、是近に軽く頬を叩かれて我に返る。


「ぼうっとしている場合じゃない! 俺たちも行くぞ!」



 辿り着いたのは内裏の北東の殿舎――梨壷なしつぼと呼ばれる場所だった。下級武官でしかない二人は当然のように殿舎への入場を拒まれる。

 侍医が慌ただしく出入りを繰り返していたかと思うと、ひと際上等な衣を着た公達が部屋から出てきた。長めの藍の直衣の下から紅の袴が覗いている。暖かな褐色の髪、褐色の目は彼の周囲に穏やかそうな空気を紡ぐ。

 見覚えがあるような気がして思い返すと、先ほど病人を抱きかかえていた男だった。彼は是近を見つけると、目だけで誘うようにすぐ北の対屋を指した。どうやら顔見知りのようだ。是近は黙って頷くと、瑠璃を連れて移動する。

 妻戸が閉まるなり、是近は男に噛み付くように尋ねた。


「一体何があったのです?」

「酒に毒を混入された。すぐに吐かせて大事はない。飲んだのは微量だったようだ」

「犯人は」

「今調べさせている」


 男が苦しげに言い、瑠璃は気が緩んで思わず床にへたり込む。

 その前で是近が胸元から菖蒲の書いた文を差し出した。男が開くと共に、きっぱりとした口調で是近は言う。


「壇上家の菖蒲より命を預かって参りました。ここは危ない。葵様のようになられる前に殿下をお連れいたします。――よろしいですね?」


 是近の言葉に確かな刺を感じて瑠璃は驚く。男は少し迷った後、顔を歪めて頷いた。


「余では守り切ることは叶わなかった。こちらもあの子が戻れるように手を尽くす。どうか頼む」

「全力でお守りいたします」


 是近が膝を折って身を屈め、後ろにいた瑠璃と男の目がかち合った。


「……その娘は? そなたの娘か?」


 瑠璃はぎょっとした。髪は短いのに、どうしてばれたんだろうと慌てると、是近が体を起こして瑠璃を後ろに庇った。


「この〝童男おぐな〟は、私付きの随身でございます。私と同様東宮に忠誠を誓っております」


 是近はきっぱりと言い切る。男は何かを察したようにそれ以上の追求はしない。


「あの子を頼む」


 真っ直ぐに見つめる瞳に宿る暖かさに、それからわずかな陰りに、どこか懐かしさを感じる。


(この目の形、朔にちょっと似ている。そういえばさっき〝余〟って……。もしかしてこの方――)


 ようやく彼の身分に思い当たって、自分のあまりの鈍さに驚く。そして、急に震えだす膝を床について深く礼をとった。

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