それから半年が過ぎたある日のこと。

 雑然とした集落を抜け、丘を登ると、この辺りで一番大きな屋敷が目に入る。冬に雪が深くなる地域に特有の傾斜のきつい茅葺きの屋根が目に入った。屋根の向こうに見える湿原は常緑と新緑のまだら模様。北と西を囲み込む真赭山脈は夏も半ばと言うのにまだわずかに雪を被っている。短い夏の訪れと共にあの雪がすべて溶け、ようやくこの地帯の色は活気づく。


 週に一、二度、瑠璃は壇上の家へとご用聞きに向かう。請け負う仕事は行ってみなければわからない。書類整理のつもりで出向いたら馬の世話だったこともあるし、買い物と聞いていたのに、家の大掃除だったこともある。老いた家長に替わって家を取り仕切っている女性――壇上菖蒲だんじょうあやめがひどく気まぐれだからだった。


 彼女はとにかく強烈な女性だった。あらゆる意味で。

 壇上という家は、ご先祖を何百年と辿ることができるとても古い家系なのだそうだ。大陸から移民がやってきた時にも、できる限り外国の血を混ぜなかったという頑固なお家柄だとか。そのおかげで保てている濡羽色の豊かな髪に潤んだ瞳を見ると、誰もがため息をつく。

 三十代半ば――これは彼女の目の前では絶対口にしてはいけないが――という歳を感じさせない、文句なしに麗しい女性。是近が言葉少なに語るには、昔彼女を巡って血が流れたこともあるらしい。そんな美しさを持つ彼女だけど、未だ独身だ。おそらく美しさに〝口を開かなければ〟という条件がついて回るからだろうと瑠璃は密かに思っていた。


 彼女の趣味は〝人の色恋話〟を聞くことだった。瑠璃に対しても例外はなく、訪ねる度に「恋人はできてないわよね?」としつこく追求される。まるで心変わりしていないかを確認するように。

 彼女が言うには瑠璃は予約済みなのだそうだ。諱を知るものとして、一生朔の為に仕えて欲しい、だから普通の結婚は諦めて欲しい、といつも言われている。十六にして恋を諦めることを強要されてもまったく悲しくないのは、おそらく元々瑠璃が恋など求めていないからだろう。

 だが、そのつもりですし、そんな相手もいないのでご心配は無用ですと毎回答えるのは割と疲れるのだ。


(あーあ……あれさえなければ、気が重くならないんだけど)




 千切れんばかりに尻尾を振る犬の門番に挨拶をすると、屋敷の門を素通りして勝手に戸口を開けた。貴族の家なのに、そうとは思えない気軽さだった。

 壇上は痩せた領地で取れる米で細々と財を築く地方官吏だ。菖蒲の姉で、今は亡き女御の葵が今上帝に見初められて入内したとき、そして日嗣皇子を生んだときにわずかに盛り上がった家も、彼女が亡くなった後は、嫁ぐ以前よりも落ちぶれてしまった。


 今まで支えてくれていた中央の貴族が、妹宮が生まれたのを機に、勢力争いを勝ち抜けないだろうと第一皇子ごと見捨てはじめたのだ。それほど裕福でない壇上家が、一人で宮に滞在する幼い第一皇子を経済的に支えるのには相当の負担があるようだった。俸禄が払えず使用人は減り、今は忠義深い年老いた郎従ろうじゅう数人で家中のことを切り盛りしている。しかしすべてには手が回らない。そこで瑠璃の出番だった。


「菖蒲様ー! 今日はなにかご用がおありでしょうか?」


 入り口で大声を上げると、奥から錦を纏った女性が現れる。菖蒲だ。瑠璃は驚いた。身分ある女性がこんな風に堂々と顔を晒すことはめったにないのだ。


「瑠璃、ちょうど良かった。大変なの、すぐに是近を呼んできてくれる?」


 嫌な予感がした。


「大変って――まさか宮に何か……?」


 菖蒲は頷く。


「勢力争いが激化している。南部の受領が全て檜葉の宮の陣営に入っているのは知っているわね?」

「はい。でも、北部はすべて東宮の後見をお約束していただいていると……」

「それが〈壇〉南隣の〈たちばな〉と東隣の〈まき〉が支援をやめようかって……さっき文が届いて」

「え――!?」


 菖蒲は項垂れる。


「〈橘〉の枸橘からたち家がご息女の婿取りを機会に南部との連携を強めるらしいわ。〈槙〉の主は風見鶏のような人だから、それで見切られてしまったみたいね。ここまで勢力が傾くと危ないの。あの子が邪魔でいっそ消してしおうと思っている輩は、ただでさえたくさんいるのだもの」


 そこまで聞いた後、瑠璃はいても立ってもいられずに屋敷を飛び出していた。




 瑠璃は壇上家で馬を借りて是近の職場である靫負所へと必死で駆けた。幼い頃に是近が乗っているのが羨ましくて堪らずに、幼馴染を巻き込んで乗馬を習った。渋々付き合う彼に苛立って、じゃあ一人でやるものとむきになっていたのを覚えている。

 馬に乗れる女性は珍しいのだろう。行く先々でぎょっとした目で見られるのがわかる。それは壇ノ団の人間も同じだった。


「とうさ――、いえ、靫負守にお取り次ぎ願います! 〝壇上〟からの伝達をお持ちいたしました!」


 馬上に女がいるのに驚いた門番は、飛び跳ねるように靫負所の内部へと駆けて行った。やがてやってきた是近は瑠璃を見て暢気に問う。


「……なんだ、どうした? 菖蒲様が怪我でもされたか?」

「違うの――とにかく、事情は壇上家で話すから。今すぐ一緒に来て」


 瑠璃の顔色が尋常じゃないことに気が付いたのだろうか。是近は、それ以上何も聞かず、頷いて自らも馬を取りに行く。相乗りよりも早いと判断したのだろう。



 壇上家に戻ると、菖蒲が市女笠いちめがさを被り行縢むかばきを穿いて旅支度を終えていた。二頭の馬が用意され、郎従がその背に荷物を積んでいる。


「菖蒲様! 何をされているのですか!」


 彼女は瑠璃の叫び声に振り向くと、すぐ後ろの是近へと目線をやった。


「私、あの子を連れ戻してくるから。表沙汰にはなっていないけれど、今までにも呪詛がかけられたり毒が盛られたりしているのよ。いくら主上が守って下さるとおっしゃってもね、これ以上敵ばかりのあんな場所に一人で置いておいたら今度こそ死んでしまうわ。――是近、後からでいいからついてきてちょうだい。なんとか東宮の護衛に任命してもらうから。そうね、辞令は後日主上に頂くわ。緊急時だからきっと許してもらえる」

「いえ、後からではなく、すぐにお供することが可能ですが……ですがこんな急に?」


 是近が問うと、菖蒲は落ち着かない様子で是近に訴える。


「急じゃないわ。ここからだと駆けつけるのに五日もかかるのよ? 急がないと手遅れになってしまう」


 ここまで取り乱した彼女を見るのは初めてで瑠璃は鳥肌が立つ。そして幼馴染がどれだけ危険なところにいるのかを初めて実感した。だから菖蒲は本気で彼の周りに彼を守れる人間を送りたかったのだ。瑠璃の望みの為ではなく――彼の安全の為に。

 菖蒲にとってお金で身分が買えるのなら安かったのだと初めて知り、瑠璃はのんびり来年までになどと考えていた自分に腹を立てた。


「お話はわかりました。しかし、落ち着いてください。菖蒲様は馬に乗れないではないですか」


 是近が心配そうに諭すと、菖蒲はくわっと目を剥いて威嚇する。


「失礼ね、乗れるに決まっているわ」


 しかし、瑠璃は菖蒲が馬に乗るところなど一度も見たことがない。たいてい牛車を使用していたはず。

 郎従を見ると彼も心配そうに菖蒲を見つめている。彼女が手綱を取ると馬が怯えるのがわかった。

 やはり慣れていないのだ。手綱を引かれるのを嫌がって馬が首を振る。菖蒲がそれに引きずられる。堪らず瑠璃は叫んだ。


「菖蒲様、無理です! 私が参ります!!」


 菖蒲は瑠璃を真っ直ぐに見ると首を横に振る。


「駄目なの。――今のあなたを宮に送っても役に立たない。是近に付かないと宮に入ることすらできないのだから」


 ぐさりと胸に言葉が刺さり、瑠璃は目を見開いた。

 菖蒲は申し訳なさそうに瑠璃から視線を外すと、もの言いたげに是近をじっと見つめる。そして慰めるように言った。


「瑠璃を責めているわけじゃないのよ。ただ、〝誰かさん〟が折れるのを待っている余裕がもうないの。ごめんなさいね」


 菖蒲の言いたいことはわかった。いくら彼女が無理に瑠璃を武官に推薦をしようとも、是近を説得できなければ使いようがないのだ。

 瑠璃は是近の助けがなければ何もできない半人前だ。現に今、伊吹ノ宮にどうやって行くのかもわからない。

 あまりの無力感に膝が折れそうだった。それでも堪えてぐっと歯を食いしばると瑠璃は是近の方を向いた。


「父さん――お願い」

「駄目だ。女は武官にはなれない。おまえは留守番だ。ここで連絡を待っていろ」


 是近は瑠璃の言おうとしていることがわかったのだろうか。願いを口にする前にそう遮った。


「嫌よ」


 ひたすら悔しかった。女だから? 刀も振るえて、馬にも乗れて――それでも、その一つの理由だけで絶対駄目だと言われるのが。


(じゃあ、あたしが男だったら?)


 思いついた時には、瑠璃は自分の長い髪の毛を掴んでいた。


「瑠璃?」


 馬に乗ろうとしていた是近が、きょとんとした目で瑠璃を見つめた。


「……瑠璃? ――やめなさい!」


 是近の後ろで馬に翻弄されている菖蒲が、何かを察したように手綱を外してこちらへ駆け寄る。瑠璃は懐に入れていた懐剣を出すと鞘から抜き、自分の肩に剣の峰を当て、刃の上に掴んだ髪を載せる――そして、一気に手前へと引いた。


「瑠璃! あなた何をしているの!!」

「――――馬鹿野郎! 何のつもりだ!」


 菖蒲と是近の声にならない悲鳴がいつまでも鳴り響いている気がした。


「父さん。これなら文句は言えないでしょう」


 左手で掴んでいた髪の束を手放す。とっさに手を伸ばした是近の手を空しく擦り抜けて、髪は地面に落ちた。


「おまえ……なんてことを……俺は、あかねにどう申し開けばいいんだ」


 やがて是近が絶望したようにその場に膝をつき、項垂れた。低い嗚咽が聞こえる。

 初めて見る父の涙に込み上げるものがあったが、謝るわけにはいかない。謝っても前には進めない。大きく息を吸って心を落ち着かせた。

 風が項を駆け抜け、短くなった髪を舞い上がらせた。

 髪の丈が背の中程までになった頭はきっと幼い子供のようだろう。捨てた髪の分だけ頭が軽く、これがなければ是近から一本とれていたかも、と今さらどうでもいいことを瑠璃は考えた。

 そして、震える菖蒲に向き直って助力を願った。春の入所試験までは待てない。これしか方法は残らない。


「菖蒲様、お願いがあります。東宮のために武官になりたいのです。必ず殿下をお守りいたしますから、それからお金はどれだけかかってもお返ししますから――どうか、推薦をお願いいたします」


 瑠璃は愕然とする二人の前で、深く腰を折った。

 地面に落ちた金色の長い髪を風が空へとさらう。青い空に舞い上がった数本の髪が、陽光に煌めいて花のように散る。



 呆然と立ち尽くしていた菖蒲の前には、いつしか角髪みずらを結い、少年に姿を変えた瑠璃が立っていた。彼女は馬に飛び乗ると菖蒲に向かって微笑む。


「菖蒲様、そんなお顔をなさらないで下さい。大丈夫ですから。身軽になった分だけ、お役に立てると思いますから」

「…………あの子をお願い」


 菖蒲はそう言うだけで精一杯だった。

 二頭の馬が去っていく後ろで、しゃがみ込むと、風に飛びそうになっている髪を拾い上げ、そして丁寧に束ねた。一本でもさらわれてはいけない。そう思った。

 髪を切り落とした瑠璃を見て、これ以上は止めても無駄だと是近は悟ったらしい。『たとえ父さんが反対しても一人でも宮に行く』と言い切った瑠璃に、ぐずぐず渋っていた是近はついに折れた。

 豆粒のようになっていく是近の背中は寂寥が漂っていた。それを見つめながら菖蒲は大きなため息をつく。

 瑠璃をあんな風に煽った菖蒲だが、こんなことは全く望んでいなかった。単にいつまでも頑な是近への当てつけのつもりだったのだ。瑠璃の性格を把握し切れていないがための失態だった。


(私はただ、朔に瑠璃を添わせたかっただけなのに――)


 宮中で流行っているような恋物語を好む菖蒲は、筒井筒おさななじみの約束というものに過分な憧れがあった。

 二人の幼い頃の約束を知った彼女は、その時に瑠璃を朔のものにする計画を立て始めた。瑠璃が、母という守護者を失った朔の心の支えになってくれるに違いないと思っていたのだ。

 もちろん甥の命の心配が一番大きかったが、瑠璃を宮に送れば是近が漏れなく付いていくことはわかっていたので、瑠璃が宮に行く理由が『武官になること』である必要は全くなかった。

 とにかく宮に送ってしまえばこっちのものと、あの手この手と画策したが、大抵が是近の妨害にあって頓挫中だった。

『妾なんてとんでもない』と反発する是近の気持ちはわからないでもない。菖蒲だって受領の娘の分際で帝に嫁いだ姉の葵が、どんな苦労をしたかよく知っている。是近が娘にそれ以上の苦労をさせたくないと願うのもわかる。

 だが、瑠璃はきっとどんな形であれ彼の傍にいることを望むだろう。あの陽光のように苛烈に輝く少女は『一生、傍に』――その覚悟を証明するかのごとく髪を切り離した。


「子供のくせに、随分見る目があるじゃない」


 齢六歳にして彼女に唾を付けた甥を思い、衝撃からなんとか立ち直る。


(諦めるのは早いわよね?)


 少し笑うと、菖蒲は握りしめた長い髪で髢を作るよう郎従に指示した。


「後で必要になる。がきっと欲しがるわ」

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