三
瑠璃の目の前には熊と言ってもいいような体格の男が立っている。壇ノ団長官、橡木是近。彼は瑠璃の自慢の父親でもあった。髪の毛は彼女と同じ蜂蜜色で、瞳も同じ緑眼だった。だが、周囲の人間はその酷似した色を見ても、彼らに血縁があるとは思わない。瑠璃の顔立ちは母親に良く似ていて、父親の面影がまったくなかったからだ。
彼は先ほどまで瑠璃と同様の防具に身を包んでいたが、頭の鉢は必要ないと思ったのか既に脱いでいた。実際今日それが役に立ったのはわずかに二回だけ。長身の彼には確かに無用なのだ。
面倒くさそうに木刀の刃先を肩に乗せているその様子は、すでに二十人の受験者の相手をした後だというのに、余裕たっぷりだった。
今年の合格者はこれまでに二名。他はすべて敷地の端で介抱されている。
瑠璃は自分より頭二つほど背の高い是近を睨み上げる。彼の眼光は瑠璃に稽古を付ける時と比べ物にならないほどに鋭い。
父是近は瑠璃に幼い頃から剣術を教えてくれている。それは彼女自身の護身のためだった。だから瑠璃が将来の希望を口にすると、彼はいつも渋い顔をする。そんなつもりで教えたのではないと。しかしそれでも彼は、毎日自分の剣の鍛錬のついでに瑠璃に稽古を付けてくれていた。おそらくはいくら瑠璃が稽古しても負けない自信があるからだろう。
(手加減しないぞって目が言っているわね)
瑠璃はぐっと木刀の柄を握った。〈瑞穂ノ国〉でよく使われる片刃剣を模した木刀は女の小さな手にも馴染みやすい。その上比較的軽いため、非力な女でも使いこなすことは可能だった。
「始め!」
開始の合図と共に瑠璃は切っ先をそっと下ろし、下段に構える。対して是近は上段に構えた。去年のように瑠璃が飛び込んだ時の一撃で決めるつもりのようだった。去年の試験ではどこを打たれたのかもわからないほど一瞬で目の前が暗くなり、気が付いたら家で寝かされていたのだ。
(今年は、そうはいかないんだから)
瑠璃は、じり、と足袋の中で足の指に力を入れる。袴の裾に隠れて見えていないはずなのに、是近の眼はかすかな動きに反応する。次の瞬間、木刀が容赦なく打ち付けられ、瑠璃は後ろに飛び退いた。巻き起こった風が瑠璃の前髪を舞い上げる。切られていないはずなのに、額に傷が入ったのではないかと思うくらいの衝撃を感じていた。
(――負けないんだから!)
思わず足が震えそうになるのをぐっと堪え、瑠璃は飛び退いた場所から跳ねるようにして、右の手首を狙って飛び込む。しかしひょいと避けられて焦った隙に、逆に手首を打たれ小手を取られた。防具越しではあったけれど、激しい衝撃に木刀が瑠璃の手から離れる。
「一本!」
わずかに逸れたのに――と思ったけれど、判定は覆らない。悔しがる暇もなく痺れる手で木刀を拾い上げると、再び彼女は下段から手首を狙う。頭を狙いたいけれど身長差のせいで届かないのだ。つまり最初から圧倒的不利。
しかし、昔、十になったばかりの子供が是近から一本を取ったという話を聞いて、今年は作戦を変えることにした。
今までの攻めで油断は誘えている。是近は瑠璃の次の狙いには気づいていないはず。
(今年は、今年こそは!)
瑠璃は再び手首を狙うふりをして、直後是近の木刀の刃先が下を向いたわずかな隙を衝いた。地面を蹴り上げる。ふわりと体が空を舞う。木刀が是近の石頭に届いた――と瑠璃は思った。
(やった――!!)
心の中で叫んだそのとき、腹をがつんと重い衝撃が襲う。是近の木刀が瑠璃の胴を打ったのだ。霞む視界の中、瑠璃の木刀は是近の頭を擦って肩を打った。
(は、外した……!?)
耳に「一本!!」という声が流れ込んだ時には、既に瑠璃の目の前は真っ暗になっていた。
「誤摩化さないで下さいよー。あれは相打ちで一本ですよ、長官」
「いや、一本じゃない。あれは。逸れたと判定が出ていただろう」
「〝こぶ〟できているでしょー? 痛いんじゃないですか?」
是近の周りで赤髪の男が行き来していた。介抱をするために密かに瑠璃を屋内に運んでいたら、手伝いますよと付いて来てしまったのだ。ちょろちょろと大きな体に似合わない動きをする彼は、人差し指でちょうど打たれた場所を的確に差す。あれだけ一瞬なのにしっかり見られていたらしい。
「入れてあげればいいじゃないですか。俺、大歓迎ですよ! 寝食共にできるんなら、今まで以上に仕事張り切っちゃいますから! あ、むさ苦しい男達が心配なら、俺がしっかり守ってあげますしー」
おまえが一番危険なんだ――是近はうんざりと男を睨んだ。
「おまえみたいなのがいるから、入れられないんだろうが!」
是近は不機嫌も不機嫌だった。なんとか平静を保って審判を誤摩化したものの、瑠璃は誤摩化せないかもしれない。木刀は確かに彼の頭を擦ったのだ。素早く胴を払って誤摩化したけれど、眼の奥で軽く火花が散った。もし瑠璃にもう少し力があれば頭が割れていたかもしれない。
「まさか俺がやった戦法を使うなんてなあ。研究熱心じゃないですか。筋はいいですよきっと」
「おまえは特殊だろ。十歳で二本取りそうになったんだから、さすがに焦った。まさかガキが相打ちを狙うとは思わない。しかもあの身長差で頭を狙うか?」
「だって長官は油断していましたし。最初は『ガキにやられるかよ』って。『頭はねえだろ』って顔に出ていましたもん。わかりやすいんですよー」
このうるさい口を理由にクビにしたいと何度思ったことか。
しかし、この男の剣の腕前は天性のもの。確かめてはいないが、すでに是近を越えているはずだった。頭も抜群に柔らかく、仕事もそつなくこなす。間違いなくこの靫負所内で一番使える男だった。
本人に野心があれば、すぐにでも長の地位は明け渡すことになっただろうが、あいにく本人は「長なんて面倒なだけじゃないですかー」と野心どころかやる気がない。女の尻を追いかけているという報告ばかりだ。
「ねえねえ。どうするんですかぁ? 一本取ったってすごい噂になっていましたよ。となると、合格させざるを得ないですよねぇ?」
「噂は噂だ。関係ない。判定は覆らないし、女は使わない」
是近はきっぱりと宣言し、男はがっかりした顔をする。
「ええー? 横暴だなあ。受領のぼんくら息子より断然使えそうなのにさぁ。そうだ、長官、この際ですからお願いしますが、あの役立たず達を何とかして下さいよー。俺がいびられるのは僻みだから仕方ないですけど、他のやつらが可哀相で可哀相で」
「うるさい。そのくらい自分で何とかできないヤツはここには要らん。さっさと持ち場に戻れ」
たかる蠅をしっしっと払うように是近は男を追い出そうとする。
「あ、その子が起きたら俺が介抱して上げましたって言っておいて下さいよー。後で紹介もお願いしますね!」
「誰がおまえなんかを紹介するか」
思わず本音が出ると、待っていましたとでも言うように、男の顔が輝いた。
「あれー? 長官、まるで〝娘〟みたいに思っているんですねぇ。毎年来ていたから、愛着湧いちゃったんですかぁ?」
へらりと彼が笑うと、茶色の眼光がわずかに尖った。『合っているだろう?』そう問われた気がして「うるさい」と思わず男の頭を叩く。
「いった! もー横暴なんだからなぁ」
(まったく油断ならんな。どうしてその頭を仕事に生かさないのやら)
是近はこの男が嫌いではない。十年来の付き合いだし、息子のように思う事さえある。だが、娘の相手となると話は全く別だった。
(瑠璃には絶対近づけないからな)
やはり入所は認めない――誓いながら是近は、未だ眠りこけている、色を除いてあまりにも自分に似なかった娘を見つめた。そして頭をさすっている男に向けて厳しい口調で命令する。
「――
すると、彼は仰々しく敬礼して、部屋を去った。
是近は大きく溜息をつくと、こめかみを揉む。頭痛は〝こぶ〟のせいだけではないようだった。
瑠璃が次に目を覚ましたのはなぜか自分の家だった。まるで靫負所での出来事が夢だったかのよう。しかし、身を起こしたとたんに腰骨に鈍い痛みを感じて衣をめくると、大きな青あざができていた。
入所試験はどうやら夢ではなかったようだ。
「あーあ……。手加減なしね」
だけど不思議と腹が立つことはなかった。手加減されて入所するような人間が、役に立てるとはとても思えないからだ。
「あとちょっとだったんだけどな……来年まで待ってくれるかな……」
そう言ってみるものの、実は瑠璃のことなど忘れられていてもおかしくない。六歳の時の約束など、覚えている方が珍しいと是近に何度言われたか。
「……覚えてなくたっていいんだもの」
物心つくころには、幼馴染を取り巻く環境が厳しいことを知った。東宮である彼には敵が多い。家族でさえ完全には信用できない、そんな場所でただ一人戦っているのだ。
瑠璃と同じく幼い頃に母親を亡くし、守ってくれる人を全て失ってしまった皇子。彼は今、後ろ盾もないままに、皇位継承権争いの最中にある。
身分の低い側室の生んだ東宮を廃し、中宮の生んだ姫宮を女帝にと推す勢力があることを、彼の叔母である菖蒲から聞いたのは去年のことだった。だからこそ瑠璃は今年の試験には何としても合格したかったのだ。
(――少しでも早く守ってあげたいのに)
目を瞑ると、瑠璃の瞼の裏に幼い少年の笑顔がぱっと広がった。
『お母上が眠られる前にぼくに教えてくださったんだ。お父上とお母上がくださった名前の意味。〝朔〟っていう名前は〝はじまり〟って意味なんだって。お日さまが顔を出す前――そんな時のことだって。今の〝瑞穂〟は暗いけれど、夜は続かない。ぼくがいつか朝日みたいに国を明るく照らすから――お父上もお母上もそう願ってるんだって。だから、ぼくは、名前にふさわしくありたい。この国を輝かせる〝光〟になりたいんだ』
――あれは二人が六歳の夏のこと。じりじりとした真夏の日差しが雪のように白く柔らかい肌を真っ赤に焼いていた。
母を亡くして、悲しくて、お墓の前でずっと泣き続けていた小さな皇子。そうしてついには衰弱して倒れてしまうくらいにか弱かったのに慰める瑠璃に対しては強がった。
父母に貰った名前を誇りに必死で立ち上がり、太陽のように笑った彼の姿を瑠璃は忘れられない。彼を支えたい。そして彼の作る光り輝く国を見てみたい。幼い瑠璃はそう思った。彼女の将来はきっとあの時に決まったのだ。
瑠璃は朔の面影を胸に抱きしめるようにして褥に仰向けになる。
「……あー、もう。来年かぁ……来年が最後かもしれないのよね」
十六になるというのに嫁に行くわけでもない、特別な仕事に就くわけでもない。是近はそのことについては何も言わないが、いつまでも親の臑をかじっているわけにはいかないと瑠璃は思っている。十七となる来年の試験がおそらく最後の機会だろうと思えた。
(最後の手段は……あんまり使いたくないんだけどな)
どうしても駄目だったら、瑠璃は知人の伝を頼ろうと思っていた。幸い壇の受領の娘である菖蒲は、昔から瑠璃にまるで叔母のように――と言うと怒られるので姉のようにと言うことにしているが――良くしてくれる。一言頼めば推薦状を書いてもらえるはずだった。むしろこちらから言い出さずとも、また去年のように提案されるかもしれない。
去年、あと一歩だったと報告した時、菖蒲は瑠璃よりも腹を立てていた。
『あの石頭はまだ駄目だって言っているの? 徹底的に妨害する気ね? あぁもう、いっそ手っ取り早く宮中の女房にでも推薦してあげたいくらいなのに。とにかく靫負所入所の後ろ盾を務めるくらいなんでもないわ。こちらから頼みたいくらいなんだから、まず是近をなんとしても説得して。私が言っても聞く耳持たないのよ。あれをどうにかしないとどうにもならないのよねぇ』
菖蒲の申し出は願ってもなかった。けれど、話を聞いた是近は凄まじく怒って臍を曲げたし、なによりも、推薦で入所するとどうしても金銭の問題が伴う。
「……絶対負担になっちゃうもの……」
伝で入れば入所試験はないが、その代わりに入所金が必要だし、定期的な寄付も必要だった。いくら良くしてもらっているとしても、他人に大金を払ってもらうことはできないと瑠璃は思っていた。
「明日からまた頑張ろ……来年こそは、父さんから絶対一本……」
呟いているうちにも眠気が襲ってきた。気が緩んだのだろう。夕食の準備――そう考えたけれど、是近の説教が待っているだろうと思うと、出ていくのも億劫だった。
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