Episode.11 僕へのギフト







宮殿へ向かいながら僕は、「これからどうするんだろう」とだけ心で繰り返していた。あまりに大きな出来事が起き過ぎたのだ。


父の死、母の死、弟が遠い遠い存在になってしまったこと。そして僕には、帰る家すら無くなってしまった。これからどうするんだろう。何を支えに、僕は生きるんだ…。


僕のそばをついて歩いているタカシは何も知らない顔で僕を見上げては微笑んでいるように見えた。



今朝目覚めた時には気持ちよく深呼吸をしていた花畑が、疎ましかった。身近に感じていたはずの花の美しさが、もはや僕の目には「美」としては映らなかった。何もかもが無意味に見えた。そして、その虚無感が僕の背中を這いまわって、今にも僕の命にまで干渉しようとしているのがわかった。その時、宮殿の扉の前に来た。



僕はもう、その白く輝く扉の中身を知っている。弟がここに居る。だからまだ歩いていたんだ。春喜は「神」と言われたって、やっぱり僕の弟だ。僕は弟に会いに行くんだ。そう自分に言い聞かせた。



扉は今朝のように勝手に開き、その先を見るのに重い頭を上げた時、僕は驚いた。



「おお…!ハルキ様…!」


オズワルドさんは歓喜のあまり、声を上げた。春喜は真っ白なローブ姿でベッドの上に起き直って、こちらを見て微笑んでいたのだ。タカシは春喜のそばまで駆けてゆき、ベッドの足元で絨毯に体を伏せ、遊び疲れたように目を閉じた。


「…春喜…」


僕は光に誘われる虫のように、よろよろと弟に近寄ろうとした。懐かしい弟が、今目の前に居る。でもなぜか怖くて、ベッドにろくろく近づけずに扉を少し過ぎただけで、僕の足は止まった。


春喜は凪いだ海のように、穏やかで深い黒目を細めて、少しだけ小首を傾げた。僕には、その首を傾ける動作の方が、まるで人間だった頃の名残のように、少しぎこちなく見えた。


「久しぶり、お兄ちゃん」


春喜だ。春喜の声だ。


「久しぶり、春喜…」


僕は嬉しくて、でもどこかよそよそしく見える弟の前では兄らしく振舞うことが出来ないのが、もどかしかった。春喜はベッドに手をついて体を預け、ちょっと下を見ていた。


「僕、ずっとさみしかったけど、お兄ちゃんがいるから、もうさみしくないよ」


そう言っている春喜の顔は、言葉に反してさみしそうだった。


僕は次の言葉を言おうとして、すごく緊張した。でも、僕は兄弟として、春喜の兄として、当たり前の望みを弟と分け合いたかった。お前は神なんかじゃないから。


「僕は…元の世界に、お前と居たかったよ」


僕がそう言っても春喜は顔を上げてくれず、少し痛みを堪えるように眉を寄せ、伏せていた瞼を閉じてしまった。


「みんなと一緒に帰ることは出来ないのか?父さんと母さんは…」


僕がそう言った時、宮殿の中に急にゴオッと一陣の風が吹き、その音で何も聴こえなくなった。僕たちは咄嗟に目を閉じて両手で顔をかばう。


「なんだ!?春喜!」


でも大きなつむじ風は一瞬で止み、また静寂が訪れる。僕は顔を上げるとすぐにベッドの上を見た。でも、ベッドの上には春喜は居なかった。


「春喜!?どこに…」


辺りを見渡そうと右を見ようとした時、僕の右腕が何者かにぎゅっと掴まれ、驚いて腕に目を落とすと、春喜は僕の隣に居て、腕を掴んだのは春喜だった。僕はまるで幽霊のように一瞬にして隣に現れた春喜にぞっとして、「違う、春喜じゃない」と、確かに感じた。


「はる…き…」


声が震える。足も竦んでいる。僕の右腕を掴む春喜の力は、僕でさえ絶対に振りほどけないだろう強さだった。そのことに、僕はまた怯えていた。


春喜は左腕で僕の腕を掴んだまま持ち上げる。僕はこれから何が起こるのか分からなくておそろしくて、されるがままになるしかなかった。持ち上げられた僕の腕はちょうどベッドの脇にある花瓶あたりに向けられていた。すると次の瞬間、更に恐怖が襲う。



「人間、手を開け」



それは春喜の口から聴こえた。でも、春喜の声ではなかった。老人のようにしゃがれて渇き、人間らしい温かみを感じない、それでも威厳に満ちた声だった。僕は本能的に「これは神の声だ」と知り、おそるおそる手を開いた。すると、僕の手の先に見えていた花瓶は、ぱっとその場から姿を消した。


「えっ…!?」


僕が花瓶に気を取られていると、目の前がでんぐり返って、真っ暗になった。


「わあっ!」






気がつくと僕は、春喜の世界に辿り着く前に体験した、色とりどりの異空間へ逆戻りしていた。相変わらずそこは虹色の湖の中のようにぎらぎら輝き続けていて、思わず僕は目をぱちくりと瞬く。



「見えるか、人間」



驚いて振り向くと、僕の後ろには春喜の姿があった。でも、その顔は、春喜ではなかった。


春喜の目は幼さを全く失って、虚ろであるのに大きな意志を感じた。その目は半分ほどに細められ、慈愛に満ちているようにも、厳しく断罪するようにも見えた。とても小学生の男の子、いや、人間には見えなかった。


そして、春喜が広げた両手の中には、さっき宮殿から消え失せた花瓶が浮いている。


「あっ!」


さっき消えた花瓶がここに!?ということはあの花瓶を春喜はここに送ったのか!?何がどうなっているんだ!?


僕がそんなふうに混乱しかけた時、また世界がぐるりと裏返って、体の中身を全部吐いてしまいそうな感覚が訪れ、風に包まれたと思ったら、僕は宮殿の床に尻餅をついていた。



「ハルキ様!お兄様!」


体中の血管が、あまりの驚きに恐怖すら感じて、どくどくと脈打っている。肌がびりびり痺れて熱している。吐き気がして、冷や汗が止まらない。震える首をなんとかよじって振り返ると、ほっとした様子のオズワルドさんが居た。


そうか、戻ってきた。戻ってきたんだ。でも、僕はもう一度春喜の姿を見るのが怖い。春喜が春喜の姿をしていないのを見るのが怖い。僕の目の前には、春喜が着ている白いローブが垂れ下がっている。



もうやめてくれ。消えるはずのない花瓶が消えたり、見たこともない世界だの、弟が人でなくなるだの、そんなにたくさんのことには僕は堪えられない!



そう思ってうつむいたのに、頭の上からまたあの声が降って来て、僕は思わず顔を上げてしまった。



「汝に与うるは、ものの本をまくるがごとくに万物を異なる場へと動かしうる力なり。この力を揮わんと欲するならば、右手をその物にかざすのみ」



限りない光と闇を同時に包み込んだような瞳の奥には、僕たちを自由に出来る創造神が確かに居た。僕は体を硬直させたままで、呼吸が止まっているような気がした。


春喜は僕などもう目に入っていないような様子で、僕の前を去ってベッドへ戻っていく。そして布団をまくってその中に潜り込み、目を閉じてしまった。そこまでの動きは、幼さも拙さも、ほんのわずかな未熟さすら感じない動作だった。



僕はわけがわからなくて、春喜を見つめ続けていた。すると、不意に後ろからオズワルドさんに肩を叩かれた。


「わあっ!」


僕はそれで一気に正気に返り、今までの恐ろしさが一気に爆発して叫んでしまったので、おそるおそるまたベッドの方を窺った。でも、春喜はもう眠っている。僕は、次にオズワルドさんが言ったことを、信じないわけにはいかなかった。




「お分かりになったでしょう。ハルキ様は、神の言葉を喋るのです」





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