Episode.5 飛び降りた先







僕は、自分が住処としていた廃ビルの屋上で、フェンスに後ろ手に寄りかかって、ぼーっと空を見ていた。夜明けの空だった。“綺麗だな”と、そう思ったけど、“もしかしたら、そう思う人間はもう僕しか居ないのかもしれない”とも思った。僕はそこで、昔あった事を思い出した。



中学の頃、僕は世界を侮りながらも、何かに頼りたくて仕方なかった。そりゃそうだ。あの頃は、すべてすべてが、「初めて対峙するもの」だった。それを乗り越えなきゃ、毎日暮らしていけない。そしてある朝、こうやって、ここじゃないけど他のビルに忍び込んで、フェンスの向こう側を憧れのように眺めていた。


“世界が滅亡すればいいのに”。その時僕はそう思っていたけど、あの時、家で眠っている春喜のことを思い出したんだ。それで、“僕が死んだら、春喜は悲しんで、その一生に僕は大きな傷を与えてしまうだろう”と身を翻し、屋上の扉を開けて階段を降りて行った。




でも、あの時と今とでは、何もかもが違い過ぎる。世界中から、恐らく人っ子一人居なくなった。きっとそうだと思う。ここから聴いていても、聴こえてくるのは鳥の声だけで、人々が歩き回り出す朝、うっすらと聴こえてくるはずのざわめきは無い。それに、もう春喜も居ない。




“もしかしたら、僕があんなふうに望んだからかもしれない”



そんな風に思いはしないし、思っただけで願望を実現出来る人間なんて居ない。でも、一度でもそんな望みを持った自分の浅はかさを、思い切り嘲笑って、張り倒してやりたかった。




僕は、自分の手のひらを見た。うっすらと静脈が浮き、そこには命があった。それから、もう一度、赤く赤く燃え盛って地上に恵みをもたらす太陽を仰ぎ見る。



僕に、「危険」という恐怖が襲い来た。心臓が足を踏み出すことを拒否している。手がどうしてもフェンスを放してくれない。



でも、もしかしたら、あの世に行けば、春喜にも母さんにも会えるかもしれない。





僕は静かに、足元のコンクリートの端を蹴った。





耳元を風が通り抜け、僕はだんだん地面が近付いて来ることを知って、一瞬だけ後悔した。でも、もう仕方ない。痛みだけは避けたくて、目をつぶる。すると、途端にふっと体が浮いて、風が轟くような轟音が耳を刺した。僕は驚いて目を開ける。




待っていたのは、痛みでも、墜落の衝撃でもなく、浮遊する感覚だった。それに、目に映る景色は色鮮やかにきらめいて、まるでテレビの中に突っ込まれたように、赤や青、緑や紫のありとあらゆる色が僕の周りに渦巻き、その空間を支配していた。


「なんだこれ…!?」


今まで見た事も聞いた事もない、異質な極彩色の空間に、僕はふわふわと浮かんでいた。


「宇宙だってこんな所じゃないぞ…」


僕は、自分がまた怪異に巻き込まれているのをやっと把握する。でも、どうしようもない。何をすれば元の世界に戻れるのか。


“そもそもここは違う世界なのか?これは僕が死への恐怖から見ている夢か、それか、もしかすればあの世への道程なんじゃないか?”、そうやっていろいろ考えても、僕にはどれが正解なのかがわからない。


“叫んでみようか。そうすれば誰かから答えが…”と、僕はそう思ったけど、見渡しても人影なんてない。誰かの怒鳴り声のようにうるさいのに、こちらを押し潰しそうな閉塞感が襲う、色の洪水。そこには僕一人だ。見れば分かる。わざわざ大声を出してまで、そんな事を再確認したくない。



僕がそう思ってちょっとうつむいた時、僕の真正面がぱっと明るくなった。


「今度はなんだ!」


僕はそう叫んで前を睨む。すると、目の前から真っ白な光が、どどどどっと攻めて来るのを見た。


「わ…わああっ!!」


急いで逃げようとして両手を掻いて、足でもがく。でも、どこにも進んで行けやしない。


“あの光は、僕の体を焼き尽くすかもしれない!それか、一瞬にして塵にしてしまうかもしれない!”


僕は、自分がビルから飛び降りて死のうとしていたのなんか忘れて、必死で逃げようとした。でもついに白い光は僕を捕まえ、また僕の意識は途切れた。


「わあーっ!!」







目を覚ますと、僕は柔らかい何かの上に眠っていて、辺りは暖かかった。そして、そよそよと風が頬を撫でている。目を開けると、黄色くて小さな蝶が視界を横切って行った。


右手を動かしてみると、違和感なく痛みもせず動いたので、僕は腕を上げて、辺りをまさぐる。何かひやりとしたものに指の先が当たったのでそれを捕まえてみると、小さな花の花弁だった。花弁はみずみずしく、うるおいに満ちていて、少し冷たい。



“ああ、そうか。ついに死んだのか。やっぱり、死ぬ前に幻を見たんだ”



そう思って体を伸ばし、僕はごろりと横向きになった。



“まさか天国にやってもらえるなんて思ってなかったけど、これであの、人の居ない寂しい地球ともおさらばだ”



僕が顔の横の花をもてあそんで、寄ってきた蝶が手に留まるのを見たりしていると、後ろから僕に薄い影が差し、少し目の前が暗くなった。





「お目覚めですか、お兄様」




僕が慌てて振り向くと、そこには司祭のような白いローブに身を包んだ、白い髭をたっぷりと蓄えたお爺さんが立っていた。




「か…神様…?」







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