Episode.4 異空間
僕が目を覚ましたのは翌朝だった。瞼を通して強い朝の日光がちかちかとして、鳥の鳴き声で目が覚めた。コンクリートの上で気絶していたからか、体を起こした時、背中など、あちこちが痛んでしようがなかった。
飼い犬だったタカシが、弟、春喜の声で喋った。僕はあまりのことに混乱して、タカシが急に目の前から消えたから、一気に気が緩んで、それで倒れてしまったんだろう。
その事実を消化するにはどうしたらいいのかなんて分からず、「もしかしたら、疲れて見た夢みたいなものだったのかもしれない」とまで思いかけた。でも、昨日目の前に現れたタカシの眼差しは、まるで人間のような、複雑な悲しみと苦悩を宿しているように見えたし、そのあとすぐに元に戻ったように見えたタカシは、結局消えてしまった。それは確かだった。僕はそこに疑いや目の迷いを差し挟む余地が見つからず、誰も居ない道をまた自転車でのろのろと進んで、新宿にある僕のねぐら、「小早川会計事務所」に戻った。
その日から僕は、春喜を一層真剣に探すようになった。とは言っても、春喜とタカシは人々を攫う時にだけ現れるのだから、人が居なければ姿を見ることは出来ないだろうと思った。僕は、人が集まるスーパーに行ってみたり、中高生のたまり場になっている古いボウリング場や、空いている店の近くを見回り、あてどもなく春喜の姿を追い求めた。
一カ月ほどもそんなことをしてみて、結局何も成果は出なかった。そして、その間にも人類は一人、また一人と消えていった。そして、いつしか僕は、人間を目にする日がなくなった。
「小早川会計事務所」の近くにあった商店街の店は、店主が全員消えてしまったので、残った人がシャッターだけ閉めた。そのシャッターはすぐさま、暇を持て余した子供などによって、落書きで埋め尽くされていった。でも、その子供たちももう居ない。
大人も子供も老人も、僕はもう会うことがなかった。
僕はそれから、このあたりにある家に一軒一軒こっそり忍び込んで回って、「ある物」を探していた。遠くに居る誰かとも交信が出来て、言葉を交わせる道具。そう、無線機だ。しかし無線機を趣味で持っている人は、とても少ない。そうそう簡単に愛好家の家に辿り着くことは出来なかった。でも僕は、ある時一つの思いつきを得た。
その日僕は、いつもの通り革張りの豪華なソファの上で目覚め、“また今日も無線機探しか…いつ見つかるかな…”と、行き詰って上手く働かない頭を持ち上げ、部屋の中を見渡した。そして、“ここにあれば一番良かったのに。まあ、会計事務所では無線機なんか必要ないもんな…”と思い、ため息を吐いた。でもその時、ふとひらめいたのだ。
「そうだ…そうだ!」
僕は思わず叫んだ。
趣味で持っている人を探すことが効率が悪いなら、職業上の手段で使っているところから分けてもらえばいいじゃないか!と、そう思った。それから僕は、すぐに自転車で近所の交番に走って行った。
その交番には、もうずっと前から人が居なかった。なぜなら、この辺りには僕以外の人がもうほとんど居ないからだ。というか、おそらく誰も居ない。僕は躊躇せず交番の扉を開けて中に入り、誰も居ないのに、「すみません」とちょっと心の中で唱えてから、そこらに放り投げてあった無線機を念のため二つ掴み取って、そこでそのまま起ち上げようと電源ボタンを押してみた。すると「…ガガッ…ズズズ…」という音がすぐに聴こえた。
“やった!これで誰かと話せるかもしれない!”
僕はそう思って、いろいろな周波数にダイアルを合わせようとして気づいた。
「あれ…?」
警察無線機には、ダイアルらしいものは無いし、それに、周波数を変える機構らしきものは何も無かった。そういえば、どこかで聞いた事がある。「警察無線は傍受されるのを防ぐために、独立した周波数を使っている」と…。僕はそこで失望しかけたけど、すぐに気を取り直した。
“だったら、どこかに居る警察官の人に届けばいい!”、そう思って、無線の音にノイズが混じったまま、無線の向こうに呼び掛けた。
「えーっと、もしもし!誰か居ませんか!答えてください!」
答えは無い。でも僕はもう一度、もう一度と思って、何回か電源を入れ直してみたりして、何度も無線の向こうに呼び掛けては受信をしようとしたけど、何も聴こえてこなかった。
交番からの帰り、僕は暗澹たる思いでなんとか自転車を押して、誰も居ない商店街を歩いていた。帰る途中で色々考えた。
“もしかしたら、もう無線を使うための中継基地が死んでしまっているのかもしれない。こんなに人が居ないんだ。そんなところの維持なんか出来ないんだろう。それか、もしくは本当に、僕以外の人間がもう居ないのかもしれない…”
僕は下を向いてそんなことを考え、泣きそうになるのを堪えていたけど、不意に頭の先が真っ暗になったように思って、ぱっと顔を上げた。すると、商店街のアーケードの出口は、真っ黒になっていた。
また起こった怪異に、僕は足が竦んだ。目の前にある、シャッターがすべて降りた商店街は、出口が真っ黒に塗りつぶされ、先が見えない。
“戻らないと!振り返って、逃げるんだ!”、そう思うのに、振り返った瞬間に闇が自分を覆い尽くすような気がして、僕は体を翻すことも出来なかった。すると、闇の中にぽうっと青い光が灯る。
「ひっ…!」
思わず喉に息を詰まらせ、僕は短く叫んだ。その内に、青い光はだんだんと人の形を象り、真っ黒く塗りつぶされた壁に貼り付けられたように見えた。でも僕は、その人型をした光が一体誰の形なのか、もう分かっていた。
それは、僕よりずっと背が低い、春喜の形をしていた。僕がそれを認めると、真っ黒い闇が、ずずっ、ずずずっ、とこちらに伸びてきた。
「わ、わあっ!」
僕は、思わず知らず自転車を捨てて後ろへ逃げ出した。でも、後ろも真っ暗闇だった。驚いて逃げ惑う僕の周りは、その時すでに、黒が支配していたのだ。
ついさっきまであったはずの商店街も、その外にあった世界も、何もかもが黒に変わっている。目の前の信じがたい状況に、僕は即座に混乱した。
“なんだよこれは!どうしてこんなことに!?”
僕は、触るのも恐ろしい黒い闇に近寄って、怖々手をつける。それは凍っているように冷たく、コンクリートとも石壁とも、鉄とも違う、異様な感触がした。無機質な氷。そんな感じだった。僕は怖かったけど、他にやることがないので壁を叩く。壁はびくともしない。また別の場所を叩いてみる。そこも壊れることはない。
それから僕は、そこらじゅうの黒い壁を叩いて回って、なんとか出口を掴むために壁を壊そうとし始めた。
時折後ろを見ると、春喜の形をした青い光がじっとこちらを向いているのがわかって、怖くてまた目を逸らした。
どんなに叩いても、蹴っても、黒い空間は破れも壊れもせず、ずっと僕たちを包んだままで、僕は焦りやら恐怖なんて言葉では測れないほどの不安の爆発から、ただ発狂したように「出してくれ!出してくれ!」と叫ぶしかなかった。それでも状況は変わらない。春喜の青い影はじっと僕を見つめていて、ゆらりとも動かなかった。
僕はあっという間に追い詰められ、渾身の力で壁を叩き続け叫んだ。
「出してくれ!お願いだ!…春喜!春喜!助けてくれ!」
すると、壁を叩こうと振り下ろしたはずの僕の両手がするりと闇を抜け、体が急に前につんのめった。額に何かがガンとぶつかる。
「痛っ!」
僕は痛みにつぶっていた目を開け、目の前を慌てて確認した。そこには、「マエダ婦人服」と書いてある、商店街のシャッターがあった。確かに、さっきまで居た商店の前だった。
「戻ってきた…?」
その時、商店街のアーケードを、大きな声が反響していった。でも、叫んでいるわけじゃない。まるでそれは天から降り注いでいる神の声のように、大きく大きく響いた。
「お兄ちゃんだけが連れて行けない。どうしたらいいの」
それは春喜の、涙声だった。
僕はそれから、もうよく覚えていないくらいに混乱を続けたまま、「小早川会計事務所」に戻り、ソファに寝転び毛布に包まって、ずっと考えていた。でも、どんなに考えても、あの「真っ黒い空間」についての答えなんか、分からなかった。
そのまままんじりともせず夜明けを迎え、気が付いた時には、僕は、廃ビルの屋上で、フェンスの外側に立っていた。
Continue.
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