第2話 僕は結局みーくんには敵わない
職場の建物から僕の部屋までは歩いてすぐです。
しかし、僕はまっすぐ部屋には向かわずに途中で脇道にそれます。今日のような天気の良い日は、絶好の寄り道を日和なのです。
脇道の先の小高い丘には小さな公園があります。ここの公園は西向きの高台になっていて、ブランコの奥の腰ぐらいの高さの手すりの向こうには、街が一面に広がっています。そしてこの公園では、ちょうど正面に夕陽が沈むのを見ることができました。僕は、そこで夕陽を眺めるのが大好きでした。
手すりの向こう側には、思ったとおり小柄な少女の後ろ姿が見えました。その姿は夕陽に染まる街の風景に影絵のように溶け込んでいます。
小柄な身体いっぱいに夕陽を浴びて公園にたたずむ少女の姿は、僕にとっては見慣れたもので、別に神々しくもありませんし、見惚れるものでもありません。ただ、やっぱり絵になる風景であることは認めざるを得ないでしょう。
僕は黙って彼女の傍らに立ち、彼女の視線と同じ方角に顔を向けました。今日も大きな夕陽が街の向こうに沈んでいきます。街には灯りがゆらめき始めています。彼女は顔に感情を浮かべないまま、夕陽の放つオレンジの光を静かに浴びて色づいていました。その大きな瞳で何を見て、何を感じているのでしょう。それは彼女にしか分からないことです。
彼女こそがみーくん、僕の仕事のパートナーでした。
さっきの発言を少し訂正します。正確に言うと、僕は『夕陽を眺めているみーくんの姿』を見るのが好きだったのです。
僕は「ちゃんとさぼらないで仕事しろよ」と注意してやろうかと考えながら、みーくんの横顔をみつめました。
ところが。
「ショー、仕事の話なら、聞かないよ」
みーくんは、挨拶もなしにいきなり話し始めました。さっきから一度も夕陽から視線を外していません。誰かが近付いていることには気がついたでしょうが、それが僕だと最初から確信していたような話し方です。なぜ分かるのか不思議です。
「そんなの分かってるさ」
僕はため息まじりにそうつぶやきました。職場以外で仕事の話はしない、これは僕とみーくんの間で絶対のルールでした。わがまま気ままでいろんなことにいい加減なみーくんでしたが、これだけは徹底していました。
僕はアリサさんにもらったほんのり温かい缶コーヒーを、ブルゾンのポケットから出して黙ってみーくんに手渡します。
みーくんはろくに視線も動かさず、缶コーヒーを手にしました。そして、お礼も言わずにプルタブを引っ張って、ためらいもなくぐびりと飲みます。他の誰かの行動だったら「普通、誰かからモノもらったらお礼ぐらい言うもんだろう」とドン引きするところですが、気まぐれで気ままなみーくん相手にそんなこといちいち気にしていたら身体がもちません。
僕もみーくんと同じようにプルタブを引っ張って缶コーヒーを一口すすります。
「みーくん、それ、アリサさんからもらった。明日お礼言っときなよ」
「わたし、明日は休み。それに熱すぎるよ、これ」
「え? そうか? むしろぬる過ぎると思うけど」
毎度のことですから僕は気にしませんが、それにしても、もらったものに平気で難癖を付けるその根性には恐れ入ります。
「ショーはさあ」
「ん?」
みーくんは相変わらず夕陽をみつめたまま、無感動な表情を微塵も動かさずに僕に話しかけました。みーくんの大きな目と整った顔立ちの横顔は、夕陽の残照を浴びてオレンジ色に染まっています。少し油断しただけでたやすく綺麗だとか、かわいいとか、そんな褒め言葉が頭に浮かんでしまいます。
「なんか、忘れてしまいたいこととかあったらどうしてる?」
みーくんはここで初めて視線を夕陽から外し、僕を正面からじっとみつめて、前後の文脈を無視したことを聞いてきました。僕は不意にみーくんの視線の直射を受けて、少したじろぎます。その大きな瞳に吸い込まれそうです。
僕は、みーくんに見つめられることにとても弱いのです。悔しいけれど、それは事実として認めないわけにはいきません。
「忘れてしまいたいこと、かあ。あんまりないかもしれないな。忘れたくなるころには、もう覚えていないような気がする」
「ふーん」
みーくんは聞いた割には興味なさそうに、また夕陽に視線を戻しました。もう夕陽は半分山にかかって、まさに日没を迎えようとしています。
「わたしは、覚えておくかな。無理してでも」
「え? 忘れたいことなのに覚えておくの? 忘れたいんじゃないの?」
「うん。忘れたいことを簡単に忘れられたら、苦労ないんじゃない? 忘れたいことってさ、忘れちゃいけないことなんじゃないかと思うの、わたしは」
突然哲学的になったみーくんに僕はどう反応していいか分かりません。みーくんと話をしているとわりとよくあることですが、今日のみーくんは一段と不可解です。こういう時の彼女は、僕の返事なんかもとから期待していません。これは言わば彼女のひとりごとです。
僕はみーくんに「ふーん。そうかもね」と最低限の相槌だけを返しておきました。しかし、その実態は聞き流しているのとあまり差はありません。おそらく彼女も僕がそれ以上の反応をするとは思っていないでしょうし、それを望んでもいないでしょう。
「ねえ、ショー。わたし、お雑煮食べたい。かつお出汁のやつ。今からショーのとこに行っていい?」
「なんでうちにお雑煮の材料があるの知ってるんだよ」
「昨日ショーがお仕事行ってる間に見たから」
みーくんはまた前後の文脈とは全く関係ないことを言い出しました。今度は少しだけ微笑みながら。まったく、また僕の部屋に勝手に忍び込みやがったな、と思いました。鍵をかけないで出歩く僕も悪いのですが、普通なら勝手に部屋に入ったことを怒るところです。しかし、みーくんは、僕がそのかすかな笑顔に一番弱いことを知ってて言っているとしか思えません。
「……しょうがないなあ」
みーくんはふふふ、と今度ははっきり笑って、えいっと手すりを乗り越えました。僕もしかたなく彼女に続きます。
「早く行こ、ショー。わたし、お腹すいた」
僕はもう一度小さく「しょうがないなあ」とつぶやきます。
僕は、薄暮の公園を後にして、二階建ての古いマンションの部屋へとみーくんに文字通り引っ張られて向かいました。
マンションに着くと、みーくんは当たり前のように二階の自分の部屋を素通りして、突き当りの僕の部屋までついてきます。「お邪魔します」の一言もなく上がり込んで、まるで自分の部屋のようにこたつでくつろぎ出しました。
「ショー、早く作ってー」
「はいはい」
僕はせかされつつお雑煮を作り、みーくんと一緒に食べました。お餅は半分でいい、とみーくんは言います。みーくんにしては殊勝だなと思うでしょ? 単に彼女がお餅はあまり好きではないだけなんです。それが証拠に「そのかわりにもっと鰹節乗せてよ」と自分の好きなものにはとことん貪欲です。遠慮も何もあったもんではありません。
結局、彼女は好きなだけ食べた後、僕の部屋のこたつに潜り込んで寝てしまいました。
こんな感じで今日もみーくんのわがまま気ままは留まるところを知りませんでした。
でもそれは僕にとってはありふれた日常の風景でしかないのです。
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