第3章 仮面の崩壊

第21話 過去への助走

「…………逃げてるだけ、か……」


 気づいた時にはバイトの時間はもう終わっていて。

 気づいた時には無事に帰宅していて。


「どうしたの、にぃに」


「ん? あっ……」


 どうやら無意識の内に食卓についていたらしく、俺はちゃぶ台の上に並べられた晩御飯を前にして完全にフリーズしていたことに、ようやく気がついた。


「いや……ちょっと、考え事をしてた」


「へぇー。珍しいね。にぃにが考え事なんてさ」


「そうか? 俺だってするぞ、考え事の一つや二つぐらい」


「そうだっけ。むしろ、にぃには考えないようにしてる感じがしてたし」


 考えないようにしてたか……それは確かにそうだな。

 確かに俺は考えないようにしていた。


 ……理由は分かってる。考えれば考えるほど、傷ついてしまうからだ。

 認めたくない過去と向き合うことが怖かったからだ。


「…………やっぱり。逃げてるんだなぁ、俺って……」


 真白の言った通りだ。

 俺は逃げていた。『完璧』だった自分から。

 過去と向き合うのが怖くて、事実を認めるのが怖くて。

 ……本当に、真白は凄い。あいつは逃げることなく傷ついている。傷つき続けているのだから。俺にはできなかった。そんなこと。


「別にいいんじゃない? 逃げても」


 俺の思考を遮るかのように、紫音の言葉が頭の中に雫のように滴って、波紋を生んだ。


「にぃにが何考えてるのか分かんないけどさ。別に逃げたっていいと思うよ、わたしは。だってさ、頑張り続けるのってしんどくない?」


「それはそうなんだけどさ……それでも、逃げずに頑張り続けようとしてるやつに対して、逃げてるやつの言葉なんて届かないだろ?」


「んー……そりゃあ、普通はそうかもしれないけどさ。頑張り続けることのしんどさは、にぃにもよく分かってるじゃん」


「俺が……?」


「うん。あの頃は、わたしも小さかったけどさ。お父さんとお母さんを喜ばせるために、にぃにがずっと頑張ってたことは覚えてるよ」


 だからさ、と。紫音は言葉を続けて、


「頑張ることのしんどさを知ってる、にぃにの言葉なら……今も頑張ってる人にも、きっと届くと思うよ」


 妹の言葉は俺の胸の中にすっと入ってきて、冷たくなった心臓を温めてくれたような気がして。


 ……自分のすべきことが、見えた気がした。


「紫音……お前は、最高の妹だな」


「えっ。気持ち悪いからやめてくれる?」


 やめろ。愛する妹の言葉は重いんだ。お兄ちゃん心停止しそう。


 ……まあ、それはさておいて。


 逃げてもいいと言って貰えたけれど。

 今の俺がすべきこと、したいことは逃げることじゃない。


 たとえどれだけ傷つくことになろうとも、俺は過去と向き合う必要がある。


 それが今の俺がすべきこと、したいことだから。


 思い出そう。思い返そう――――『完璧』だった頃の自分を。

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