第22話 灰露夜音のなりたいもの
「すごいなぁ、夜音」
今はもう家には居ないけれど。
今はどうなってるか分からないけれど。
「頑張ったんだなぁ」
少なくともあの頃の……俺がまた、
「お父さんは、何をやってもてんでダメだったからなぁ」
俺が何か結果を出すたび、お父さんはそう言って笑ってた。今思えばそれは苦笑いだったのかもしれないけれど、俺には優しく笑っているように見えたんだ。
「お父さんは、俺が結果を出せると嬉しい?」
「そうだなぁ……夜音が頑張ってる姿を見るのは、父親として嬉しいよ」
これもまた今思えば、お父さんは俺の質問にきちんと答えてなかった。
俺が結果を出すことを喜んでくれるとは言ってなかったし、
だけど当時の俺はそんなこと考えることもなく、疑うことすらなく。
「じゃあ俺、がんばるよ!」
無邪気に笑って、無邪気にはしゃいで、無邪気に前を向いて。
目の前にあるものに全力で取り組んだ。
学力テストがあれば満点をとった。
習い事があれば頂点に立った。
人間関係があれば信頼を勝ち取った。
何でもやったし、何でもできた。
その度にお母さんは凄いねって言ってくれたし、妹は憧れてくれたし、お父さんは笑ってくれた。
何事にも全力で取り組むのは、辛い時もあった。しんどくなる時もあった。確かに俺には才能があったし、天才ではあったけど。
俺よりもずっと努力してる子がいるのに、俺の方が結果を出してしまって後味が悪くなる時もあった。陰で泣いている子だっていた。その度に胸がズキンと痛んだ。
悪いなぁ、って思った。申し訳ないなぁ、って思った。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。俺が何をしたんだ。別に悪いことなんてしてないのに。俺は全力でやってるだけなのに。俺はただ大好きな家族に喜んでほしいだけなのに。なのにどうしてこんなにも苦しまなくちゃならないんだ?
そんなことを思った。むかむかして、悲しくなって、苦しくて。
眠れない日もあった。いっそのこと、手を抜いてしまおうかなんて思ったりもした。
でもそれはしなかった。それだけはやらなかった。
他のみんなが頑張っていることは何となく分かっていたし、みんなの努力に対して失礼だとも思ったし、何より赤の他人よりも家族の笑顔の方が大切だった。
だから頑張った。才能で努力を蹂躙した。
苦しかったけど、構わず突き進んだ。
これでいいと思っていた。これでいいと信じていた。
少なくとも俺の主観では、俺の世界は上手く回っていた。
――――だから。
――――お父さんがどんな気持ちで俺を見ていたかなんて、考えもしなかったんだ。
お父さんとお母さんは学生時代に知り合ったらしい。
多才だったお母さんに比べて、お父さんは平凡だったという。何をやっても上手くいかなかったという。
学力テストがあれば赤点をとった。
習い事があれば底辺に這いつくばった。
人間関係があれば信頼を失った。
何をやっても、何を為そうとしても、『完璧』にはならなかった。
惨めで悲惨な人生を歩んできたのだという。
惨めで悲惨な人生を歩んでも、お父さんは優しい人で、お母さんはそんな優しさに惹かれたのだという。
だけどお父さんの優しさは、お父さんにとってはそれしか縋れるものしかなかったというだけのものだった。
赤点をとっても、底辺に這いつくばっても、信頼を失っても。
優しくなることぐらい、誰にだって出来ることだから。
お母さんは違うと言うけれど、お父さんは納得できなかったらしくて。
お父さんは愛して愛されて、結婚して子供を産んでも。
――――結局、奥底では『完璧な人間』というものに焦がれ続けていたのだ。
そんなお父さんは、俺をどんな目で見ていたのだろう……だなんて。
自分が欲しかったもの全てを自分の息子が持っていて、どんな気持ちだったのだろう……だなんて。
考えもしなかった。思いつきもしなかった。
……少なくとも俺の主観では、俺の世界は上手く回っていた?
そりゃそうだ。だってそれは、俺の主観でしかなかったのだから。
実際のところ、その裏ではたくさんの人が傷ついて、たくさんの人が打ちのめされて。その人の世界なんて回ることなく滅んでいて。俺にはそれが、一切合切何も見えていなかっただけのことだった。
「もう……やめてくれ」
確かその日は、雨が降っていた。雷も落ちていたと思う。
俺はお父さんと手を繋いで、街の中を歩いていた。映画を観た帰りだった。
映画の内容はあまりよく覚えていないけれど……面白かったね、とか。楽しかったね、とか。そんな話をしていたはずだ。
だけど話題もそのうち尽きて、俺が最近出した結果についての話になった。
その時はいつものようにお父さんが笑ってくれると思ってた。褒めてくれると思ってた。
でも違った。知らないうちに、お父さんの中で限界が来ていた。
「もう……聞きたくない。聞きたくないんだよ」
「お父さん……?」
その時は分からなかった。どうしてそんなことを言うのか。どうしてそんな顔をしているのか。何も分からなくて。でも何か良くないということだけは分かっていて。背筋がひやりとしたことだけハッキリと覚えている。
「お前を見ていると……自分が惨めになる」
お父さんの顔は疲れ切っていた。憔悴しきっていた。
見たこともない顔をしていて、怖かった。
「お父……さ……」
「黙れよ!」
握っていた手は、振り払われて。
「なんでお前は持ってるんだよ……僕が欲しかったもの、全部持ってるんだよ……」
その眼は、息子を見るものじゃなくて。
「自分の子供が活躍してくれれば嬉しいとか、そんなことを考えた頃もあったけど……やっぱダメだな。ぜんぜん嬉しくない。だってお前は僕じゃない。お前はお前だ。その才能も、名声も、評価も、愛も。それがなんだ。全てお前のものでしかない。僕のものになりはしない」
恐怖。憎悪。無力感。自己嫌悪。色々なものがかき混ぜられたような――――そんな眼をしていた。
「惨めな僕が、ようやく手に入れた
その眼はもう、疲れ切っていた。
「何をやっても、やらせても。お前は全て『完璧』にこなす。……ははっ。お前、本当に同じ人間かよ。『完璧』過ぎるのも、考え物だな……」
そうして。
「気持ち悪いんだよ……お前……」
そう言って。
雨の中、お父さんは一人で歩いて行った。
俺はそれを呆然と眺めていて。足元が全て壊れて、崩れ去ったかのような気がして。
「ま、待って……待ってよ! お父さん!」
何が起きたのか分からなかった。
お父さんの内に抱えていたもの。ため込んでいたものが破裂したんだということが、当時は分からなかった俺は、迫りくる得体のしれぬ恐怖から逃げ出すように、お父さんを追いかけた。
「ねぇ……! 俺、がんばるから……! もっともっと、がんばるから……! だから……!」
才能がほしかったわけじゃない。
名声がほしかったわけじゃない。
評価がほしかったわけじゃない。
……貴方を、傷つけたかったわけじゃない。
俺が頑張ってたのは、『完璧』を続けていたのは――――
「あ――――」
横断歩道を走っていた。信号が赤になっていることも気づかなかった。
迫るヘッドライトの光で、自分の状況を理解して。
雨を蹴散らして迫る車体。刹那で見たのは、父親の姿。
手を伸ばした。必死に、がむしゃらに。
何が出来るわけじゃない。何もできないと分かっていたけれど。
父親に向かって、縋るように手を伸ばしていた。
「…………」
――――お父さんは、笑っていた。
ひきつったように笑っていた。
手は伸ばされることなく、地面を向いていた。
その時、悟ったんだ。
……ああ、この人はきっと。俺が今ここで車に轢かれて、死んでしまったら……喜ぶんだろうなぁ、って。
俺が縋るように差し出した手は何もつかめなかった。
手のひらにあったのは虚空と雨粒。
お父さんは、二度と俺の手を握ってはくれなかった。
――――幸いにして。
車にぶつかりはしたけれど、命に別状はなかった。
軽い骨折ぐらいで済んだ。病院のベッドで寝て、治療を受ければ治るものだ。
でもその時のことをきっかけに、家族は壊れた。そればかりはベッドに寝かせられないし、治療をすることも出来ないし、治りもしない。
俺が入院している間にお父さんは家を出て行った。見舞いには一度も来なかった。
お母さんは俺を抱きしめてくれた。「夜音のせいじゃないよ」って言ってくれた。
それから……なんだっけな。「ごめんね」だとか「もうがんばらなくていいよ」とか。そんなことを言ってた気がする。
でも、その時に俺は思ったんだ。
世間は『完璧』を讃えるけれど。『完璧』を追い求めるけれど。
……『完璧』だからって、幸せとは限らない。『完璧』は誰かを傷つける。
むしろ不完全である方が、みんな幸せなんじゃないかって。
確かにつらいこともあるけれど、『完璧』であることがあんなにも人を傷つけて追い詰めるのなら……。
俺は、『完璧』を捨てて――――不完全な人間になりたい。
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