第10話 真白桜月の苦手なもの

 今の雷が原因なのだろう。不意に起きた停電で、視界が真っ暗な闇の中に覆われた。

 窓の外を眺めてみると、向かいの家の明かりも消えていた。どうやらこのボロアパートだけのことじゃないらしい。


「確か棚に懐中電灯が置いてあったっけな……」


 スマホは鞄の中か。けどここからじゃ遠い。棚の方が近いな。

 ……と、光源を確保すべく立ち上がりかけたところで。


「ま、待って、くださいっ……!」


 暗闇の中、少女の手が俺のシャツを掴み取った。

 焦ってるのかなとか、停電に驚いてるのかなとか、そんな呑気な思考はすぐに消し飛んだ。


 今にも爪を立てそうな勢いで、文字通り必死と言わんばかりの力で……そして、縋りつくように。

 真白は、俺のシャツを掴んでいた。


「行かないで、ください……独りに、しないでください……」


「……懐中電灯を取りに行くだけだ」


「それでも……お願いです。お願いですから……傍に、いてください……」


 可愛らしさとは無縁の。それこそ、怯えるように。恐怖という二文字が、彼女の声には刻まれていた。


「っ…………!」


 困惑している間に、二度目の雷鳴。シャツを握る手に、更に力が入り。そこから伝わってくるのは震えだ。


「っ……! はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 暗闇から聞こえてくるのは息遣い。その呼吸は徐々に速くなり、リズムも乱れていく。

 まだ目が慣れていないので見ることは出来ないが、明らかに尋常じゃない様子であることは確かだ。


「おい、真白。大丈夫か?」


「ごめん、なさい……」


「いや、そんな謝ることじゃ――――」


「ごめんな……さい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」


 縋りつくようにシャツを掴んでくる真白は、息を乱しながらも謝罪の言葉を吐き出していた。


 ……その謝罪は俺に対して向けられたものではない。少なくともここにはいない誰かに向けたものなのだろう。


「…………」


 震えて、怯えて、縋りつく真白は、とてもか弱く小さな女の子にも見えて。

 今すぐにでも抱きしめてあげないと、消えてしまいそうなぐらい儚くて。


(どうしろってんだよ……ただの彼氏役かりそめに)


 だけど俺にはできない。この少女を抱きしめて、とどめておくための資格なんてどこにもない。


 だってそうだろう? そんなものは王子様の役目だ。

 都合の良い時に颯爽と現れて、問題を鮮やかに解決して、ヒロインの涙を拭う。

 そんな、物語に出てくるような……完璧な王子様の役目なのだから。


「はっ……! はっ……! はぁっ……ぁ、あぁ……っ……!」


 ところがどうだ。ここには王子様は居ない。いるのはただの偽者かりそめ虚構ニセモノに過ぎない。

 役には釣り合わない。そんなことは分かってる。

 それでも……それでも息苦しそうに、呼吸すらままならなくなっていく真白を見て、放っておけるほど冷たくもないつもりだ。


「……真白」


 暗闇の中、必死にシャツを掴む彼女の手を解く。

 代わりに俺の手を真白の指と絡めて、しっかりと繋ぐ。

 震えが伝わってくる。怯えが伝わってくる。それでも……今朝と同じ、温もりだけは変わらない。


「はい、ろ……くん……?」


「残念ながら王子様は不在みたいなんでな。……こんな代役で良ければ、傍に居てやるよ」


「…………」


 返事はない。顔も見ることも出来ない。それでも真っ暗な闇の中で手の温もりだけは確かに伝わっている。掴む手の力は微かに緩み、呼吸の音も徐々に安定してきている。


「…………ありがとうございます。灰露くん」


 謝罪は途絶えて。感謝の言葉が、そっと耳元に囁くように聞こえてきた。


 ――――それから、どれぐらいそうしていただろう。


 十分だったか、一時間だったか。時計も見えないしスマホも手元になかったので、どれぐらいの時間だったかは分からないけれど。

 永遠だったかもしれないし、ほんの刹那のことだったかもしれない。


「…………あ」


 チカチカと電灯が明滅し、やがて暗闇は光によって塗りつぶされた。停電は収まったらしく窓の外からも文明が灯り始めていくのが見えた。


「停電、収まったみたいだな」


「そう、ですね……」


 ほっとしたような真白の声。……その声が近いことに俺が気づいたのと同時に、真白も同じことに気づいたらしい。

 更には無駄にタイミングまで揃っていたらしく、俺たちが互いの顔を見合わせたのもまったくの同時だった。


「「――――っ……!」」


 停電の間は気づかなかったが――――思っていた以上に、俺たちは密着していたらしい。

 手は今もなお結ばれていることもそうだが、そんなことより……近い。

 目の前には真白の顔がある。ちょっと動けば、鼻先がくっついてしまいそうだ。蒼い瞳は微かに滲んでいたであろう涙で潤っており、灯った明かりが反射してきらりと輝いている。


 長いまつげも、吸い込まれそうになる蒼い瞳も、微かに漂ってくるシャンプーの香りも。全てが近く、学園に居た時よりも身近に感じられて。


「あっ……ご、ごめんなさいっ。ずっと、握ってしまってっ……!」


 先に手を放し、離れたのは真白の方だった。


「い、いや。こっちこそ、なんだ……悪かった。勝手に」


「そんなっ。灰露くんは私を落ち着かせるためにしてくれたんですからっ。悪いのは私ですっ」


「いや。打ち合わせも同意もなく勝手に手を握ったり、触れたりするのも、あんま褒められることじゃないし。俺が迂闊だったんだよ」


「ですから私がっ」


「だから俺がっ」


 言葉が衝突したのも……そんなことをしている自分たちが、どこかおかしくて笑ってしまったのも、また同時だった。


「……やめましょうか」


「……そうだな。お互い様ってことで」


 表情を綻ばせた真白。そこには先ほどまでの怯えも震えもなかった。

 それから俺は立ち上がると、ヤカンに水を入れてコンロに火をつけた。しばらく待って、お湯を沸騰させると、マグカップに注ぐ。スティックタイプのパウダーをスプーンで混ぜて溶かし、出来上がった温かいココアを真白に差し出す。


「ほら。インスタントのやつだけど」


 俺がココアを差し出すと、真白は懐かしそうに。それでいて、嬉しそうに目を細めた。


「……ありがとうございます」


 それからは穏やかな時間が流れていた。洗濯物をあらためて洗い直し、待ってる間は夕食を作り、デザートにはスーパーで買ってきたケーキを食べて。

 洗濯機が止まると、真白の服だけ先にドライヤーで乾かした。全てが終わり、家を出る頃には雨は既に止んでいたものの、外は真っ暗だった。

 こんな暗い中、女子を独りで帰らせるのも流石に不味い。そうでなくとも真白の外見は人目を惹く。彼氏役・・・として、送り届けるのは当然の選択といえた。


「今日はありがとうございました。朝からずっと、付き合わせてしまった形になりましたね」


「まったくだ。まさか一日がこんなにも長いとは思わなかったぞ」


 そう。

 こいつの恋人を演じて、まだたった一日しか経っていないのだ。厳密なところでいうと二十四時間すら経っていない。


 ……だけど。


 この一日は、少なくとも俺にとっては大きな変化を齎した一日と言えよう。


 天上院学園の『人形姫』。

 誰もが認める『完璧』な人。


 俺だってそう思っていた。だからこいつのことが、正直言って苦手だった。


「……でも、まあ。悪くない一日だったよ」


 でも……今は違う。周りの目から見れば相も変わらず、真白桜月という少女が『完璧』に映るのだろうが、俺の目から見た真白桜月は、もう違う。


「普段は制服姿しか見れないからな。こんなにもダサい服を着てる真白を見れたのは、ある意味で収穫だよ」


「だ、ダサいとはなんですか! 頑張って作ったんですよ!?」


「手作りなのかよ!?」


 誰かこのお嬢様にセンスを売りつけてやってくれ。


「……灰露くんは、私の作ったものをけなしてばかりです」


「自分に正直なだけだよ。……つーか、あの資料に関しちゃけなしてないだろ」


 むしろ良く出来ていた。良くできていたからこそドン引きしたわけなんだけど。


「Tシャツ作りのセンスはともかく、意外だったよ。お前、そんなラフな服を着るんだな」


「……窮屈な服が苦手なだけです。特に制服は、首元を締めるのが、まだ慣れなくて……」


 無意識の仕草なのだろう。真白は自分の首元に、そっと手を当てる。

 そんな真白を見て何となく頭を過ぎったのは、停電の時の声だ。


 ――――ごめんな……さい……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!


 アレが何を意味しているのかは分からない。

 だけど、たぶん……こいつが家族を壊してしまったと、吐露したことに関係があるのかもしれないということは、何となく分かった。


 呼吸が困難になりかけるほど、真白を苦しめる何か。それが何なのか……いや。それを、俺が触れてもいいのか? 恋人役かりそめでしかない俺が……。


「……苦手なものは、他にもあります」


 考え込む俺の思考に、真白がポツリと零した言葉が滴り落ちた。


「……雷と、真っ暗なところです」


 隣を歩く真白は俯いている。半端な月から目を逸らすように。


「雷も、暗闇も……全部、嫌なことを思い出すんです。今日、もし家にいたら……独りで震えることしか出来なかったと思います」


 だから、と。真白は言葉を続ける。


「今日は灰露くんが傍に居てくれたから、私は壊れずに済みました。あの時・・・みたいに……私に温もりをくれました」


「あの時?」


 喫茶店でココアをサービスした時か。確かに泣いていて、尋常じゃない様子ではあったけど。


「……覚えてないなら、いいんです」


 笑いながらも、少し残念そうに眉を下げる真白。

 何を――――と、質問しかけた時、真白はするりと俺の手から離れるように一歩を踏む。


「ここで大丈夫です。もう、すぐそこですから」


 真白が目を向ける。その先には、俺の家ほどじゃないが小さなアパートが佇んでいた。


「灰露くん。これからも引き続き、恋人役お願いしますね」


 それだけを言い残して、真白は一人暮らしをしているというアパートまで去っていく。


(雷、か……)


 過去の記憶が脳裏を過る。暗雲から降り注ぐ雨の雫。そして、


(そういえばあの日も……雷が鳴ってたっけな)


 彼女が自分の部屋に入るのを最後まで見届けて、俺の長い一日が……恋人役の初日が幕を閉じたのだった。

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