第8話 少女の願い
雨の中を走り、真白を案内したのは近所の路地裏だ。勝手知ったる道を往き、辿り着いた先で俺たちを出迎えてくれたのは、年季の入った古びた看板。掠れた文字で『金剛の湯』と描かれてある。
「ここは…………」
「俺ん
安いから結構気軽に来れるからな。
「お前、このままじゃ風邪ひきそうだからな。家に帰る前に、まずは身体を温めろ」
「私、着替えなんて持ってきてませんよ?」
「今から俺がひとっ走りして、お前の分の着替えを家から取ってくるよ。番台のおばちゃんに頼んで脱衣所に置いといてもらう。学園の鞄に入れとくから、それを目印にしてくれ」
ついでに傘も取ってきておくか。銭湯から出ても雨が上がっているとは限らないし。
「でも……灰露くんにそこまでしてもらうわけには……」
「いいから中に入れ。こんなところで立ち話してたらそれこそ風邪をひいちまうからな」
半ば無理やり押し込む形で馴染みの銭湯に真白を押し込むと、俺はいちごのショートケーキ一つ分の重さの増えたエコバッグを握りしめた。
「……よし。もうひとっ走りだ」
湿った空気を肺にたっぷりと吸い込むと、俺は降りしきる雨の中を独り駆け出した。
☆
家に帰った俺は荷物を冷蔵庫の中に片っ端から詰めていき、鞄を引っ繰り返して入れ替えるように着替えとタオルを突っ込んでから、そのまま傘をさして銭湯まで駆け込んだ。
それからおばちゃんに頼んで鞄を女湯の脱衣所に置いておいてもらい、俺自身も荒れた息を整えながら男湯の湯船に浸かって身体をしっかりと温める。湯から上がり、着替えを済ませてロビーにあるソファーに腰を沈めたところで、一息つく。
今日は特に疲れたからか、いつもより少しだけ長居してしまったな。
「……お待たせしました」
声の方に振り向くと、湯から上がって来たらしい真白がそこにいた。
俺が持ってきた鞄をぎゅっと抱きしめるようにして持っており、湯上りのせいか頬が僅かに紅い。
「あの……灰露くん。この服は……?」
真白が着ているのは明らかに男物と分かるシャツだ。サイズが合っておらず、ぶかぶかになっている。
「……悪い。妹のを持ってこれたらよかったんだけど」
干していた洗濯物は雨で全滅。他に着れそうなものは泊りで持って行ってしまっていた。もう少し探せば何かしらあったのだろうが、急いでいたのでそこまで頭が回らなかった。
「い、いえ。気にしないでください。ただ、その……灰露くんの香りがするから、もしかしたらと思っただけで……」
「そ、そうか………………」
つまり、それは。どういうことなんだ。
――――なんて訊ねられるわけもなく。
「あの……隣に座っても、いいですか?」
「……お好きにどうぞ」
ちょこん、と真白は鞄を抱きしめたまま俺の隣に座る。
途端に漂ってくる香りはシャンプーのものだろうか。俺とはまるで違うその香りに心臓が緊張を訴えてきた。
「…………雨、止みませんね」
「…………そうだな」
錆びついたトタン屋根から奏でられる、規則性のない雨粒の音がここまで聞こえてくる。世界が一瞬、静寂に満ちた錯覚さえ覚えるほど、ゆったりとした時間。
居心地は悪くない。だけど、どこか甘くてむず痒い。
この謎の緊張感のせいか、口から何も言葉が出てこない。
話題。何か話題を探せ。
「…………お前さ。なんであそこのスーパーにいたんだ?」
「ただの買い出しです。そういう灰露くんは……」
「俺も買い出しだよ。うちの冷蔵庫はもう弾切れでね」
買い出し、ね。……そういえば今朝の集合場所に使ったこの公園は俺の家からも近いが、あのスーパーからも近い。
「……お前、近くに住んでるのか? この辺に豪邸なんざなかったはずだけど」
「……高等部に上がってからは、実家を出て独り暮らしを始めてるんです。本当は生活費も含めて独りで全て出来ればよかったのですが、それだけの力は無いので……仕送りは最低限にしてもらって、あとはアルバイトをして」
「へぇ。お前の家、結構裕福だし、別に学園から遠いわけでもないんだろ? なんでわざわざそんな苦労するんだよ」
「……父のもとから離れて暮らそうと思ったんです」
「……父親と上手くいっていないのか?」
言ってから、内心で自分に対し舌打ちする。言わなくてもいいことを口に出してしまったのは、『父親』という存在が心の中を刺激したせいか。
「あ、いえっ。父とは良好な関係を築けていると思いますよ? 父は私のことをたくさん愛してくれていますし、独り暮らしだって結構反対されたんです。アルバイトだって、父のツテで紹介したところじゃないと許可しないって言われるぐらいで。……ちょっと過保護なところはありますが、私は父のことを尊敬してますし、大好きです」
でも、と。真白は言葉を続けようとして、目を伏せた。
「……大好きだからこそ、離れたかったんです」
顔に陰がさしたのは一瞬。瞬きする間に、彼女はいつもの明るい『完璧な』笑顔を張り付けていた。
「あはは……すみません。変なこと、言ってしまいましたね。今のは忘れてください」
「…………お前、いつもそんなんで疲れないのか?」
「えっ……?」
ソファーから立ち上がり、近くの自動販売機に百円玉を幾つか投入する。
「今日一日、『彼氏役』をやってみて少しは分かったよ。お前はいつも、これだけ注目されて、人の目に囲まれながら学園生活を送ってるんだな……って」
目当てのフルーツ牛乳があることを確認し、ボタンを押す。
「他人に気ぃ遣わせないように笑顔を張り付けて、勉強もスポーツもそつなくこなして。ミスなんて許されない環境で、常に『完璧』な振る舞いを続けてる」
こんなにも綺麗で、可愛くて、頭も良く、スポーツも出来る美少女が。
ほぼ誰からも……同性からすらも好かれてるなんて珍しい。普通は嫌われるなり、避けられるなりする方が確率的には高いだろうに。
――――俺が思うにこいつは、異常なほどヘイトコントロールが上手い。
紫音の気遣いを更に発展させて磨き上げた、進化系バージョンとでも言おうか。
お高く留まらず、程よく愛嬌があり、親しみやすさを纏って。
誰からも嫌われない、模範的で完璧な人間を演じている。
そのパフォーマンスを発揮するために、日頃からどれだけ神経を張り詰めて過ごしているのやら。
「……そんな『完璧』をずっと続けて、疲れないのか?」
二個目のフルーツ牛乳を購入すると、そのまま一つを真白に差し出す。
(……ん?)
ふと抱いたのは既視感。
前にもこんなことが、あったかのような……。
「……灰露くんは、なんでもお見通しなんですね」
フルーツ牛乳を受け取った真白が見せた笑顔は、『完璧』なものではなく。抱いた微かな既視感も、それに引っかかって消え失せていく。
「そうですね。疲れないと言えば、嘘になります。……でも、いいんです。私が望んだことなんですから」
「……『完璧』であることをか?」
「はい」
一切の迷いも躊躇もなく。俺の目の前にいる少女は頷いた。
「……私がそうなりたいと、願ってやまないもの。そうです。私にとって『完璧』とは――――
「……俺にはとうてい理解出来ないな」
「……それでも、私は願い続けます。だって…………私が『完璧』ではなかったせいで、家族が壊れたんですから」
俺の頭に過ぎるのは、あの日……喫茶店で独り、声を押し殺すようにして泣いていた真白の姿。
――――あの涙の
今度は口を滑らせることもなく、喉まで出かかっていた疑問を飲み込んだ。
窓の外では、今もなお雨が降り続けていて。
その雨はどうやら、しばらく止むことはなさそうだった。
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