第2話 人形姫の申し出

夜音やおと。寝不足か? 今日はずいぶんと調子が悪そうだったが」


 真白桜月の一件があった翌日の放課後。

 友人。いや、悪友であるところの虎居京介とらいきょうすけが覗き込むように、その端正な顔立ちを向けてきた。


 アイドルと言われても通じるほどの美形である。

 そんな綺麗な顔が急に、それも真正面に来ると、寝ぼけ気味だった頭も覚めるというものである。


 そんな京介は、この喫茶店『ウインドミル』の常連である。

 今日もマスター特製のコーヒーを口にしながら、いつものカウンター席に陣取っていた。


「ん。ちょっとな……」


「そうか。朝から潰れたカエルみたいな顔をしてるから何事かと思ったぞ。接客業なんだからもう少し身嗜みには気を遣え」


「ほっとけ!」


 アイドル級のイケメンに顔のことを言われると何も反論できないだろ。

 いや、それにしてもそこまでじゃねーよ!


「色々あって寝不足なんだよ……」


 色々、というのはもちろん昨日のことだ。


 学園の人形姫アイドルになぜあんなことをしてしまったのか。

 バイトから帰って、一人冷静になって、腹の底から湧き出る後悔と羞恥に悶えてマトモに睡眠がとれなかったのは言うまでもない。


「おかげで小テストも満点を逃しちまったよ」


「お前が満点を逃すのはいつものことだろ。中等部の先生たちも、どれだけ嘆いてたことか」


 射抜くような、穿つような。

 そんな京介の視線は、いつだって俺を居心地悪くさせる。


「オレも『真面目』とは縁遠いが、お前に関しちゃ別の問題だ。その何でもかんでも不完全にする癖・・・・・・・、改めた方がいいぞ」


「……生憎と、俺は日本国民らしく『健康で文化的な最低限度の生活』を信条にしてるんでな。百点だろうが九十九点だろうが目標を果たせるなら、俺は労力の少ない九十九点の方を選ぶね」


「それは最低限度の労力になるよう手を抜いて過ごせって意味じゃねーよ」


「肩の力を入れっぱなしにしてたら疲れるだろ。そういうわけだから、今日は早く帰って惰眠をむさぼることにするよ」


「……そうか。……なら、その前に少しはこき使ってやるとしよう。コーヒー、おかわり」


「無理だな。さっきそのコーヒーを淹れた時、マスターが『おにーさん、ちょっと寝てくるからあとヨロシクー』とか言ってたし」


「相変わらずテキトーな店だな。採算とれてんのか?」


「マスターの道楽でやってる店だしなぁ……来てくれるお客さんも地元の人ばかりで、そのへんの緩さも名物だと思ってくれてるし」


「確かにな。かくいうオレもその一人ってワケだが……んじゃあ、ココア一つ」


「あいよ」


 マスターは気分屋なのと、本業が忙しい時は店に出られなかったりするときがある。

 その時は俺がココアをお客さんに振る舞うのが定番になっていた。


「…………」


 火をかけた鍋でバターを溶かしていると、今朝のこと、真白桜月のことを思い出す。


 朝は寝不足で、いつもよりイマイチ回らない頭をまわして登校して、いつもよりちょっぴり遅い時間に教室へと入ってきて。


 まず先に目に入ったのは、我が学園の人形姫の様子。

 昨日泣いていた女の子は何事もなくクラスメイトと談笑している。

 涙なんて最初から流していない。涙を流すわけがない、といった様子で。


 今日一日、ずっと――――真白桜月という少女は、いつもと何ら変わらず『完璧』だった。


(昨日見たのは……俺が見た幻覚とかじゃねぇだろーな)


 バイト先の喫茶店で、独り涙を流していた少女の姿。

 あれがもはや幻とさえ疑わざるを得ない。

 だけど確かに、俺の財布からはレジに納めたココア一杯分の料金が消えているわけで。


「…………」


 考えても仕方がない。考えるべきことでもない。

 ただどうしても、あの時の……彼女の頬を伝う涙が。一生懸命に何かを堪えるように、声を押し殺して泣く彼女の姿が頭から離れない。


(いや……俺が気にすることじゃないだろ)


 そろそろ、いい加減。頭を切り替えていつも通りの日常を過ごそうと自分に言い聞かせる。


 ――――からん、からん。


 思考を切り替えようとしたタイミングで、店内入口のドアチャイムが音色を奏でた。


「いらっしゃいま――――」


 最後の一文字が出なかったのは、文字通り言葉を失ったからだ。


「あ……今日も居たんですね。よかった」


「真白……?」


 訪れた客人はあろうことか真白桜月、本人だった。


「ほぉ。こりゃ珍しいお客様だな」


「そ、そうだな……」


 京介は席を立つと、コーヒーとココアの分の料金をカウンターに置いた。

 ちなみにココアはまだ出していない。作ってる最中だったから。


「オレはもう帰るわ。ごちそーさん」


 見た目は営業スマイル。されどその裏に隠された、明らかに面白がっているであろう笑みを想像することは容易い。この悪友とは、中学からの付き合いだからだ。


「あとで話、聞かせろよ?」


「……嫌だと言ったら?」


「学園中の男子共に『お前と真白が逢引してた』と言いふらす」


 お前は鬼か。


「必ずやお耳に入れさせていただきますクズ野郎」


「おー。せいぜい面白い話が聞けるように、期待してる」


 俺にしか聞こえないように囁いて、京介はひらひらと手を振って去っていった。

 ただ普通に店から出ただけなのに妙に様になる。


 はあ……真実の無力さを垣間見た感じか。

 いつの世も愚かな大衆は甘美な虚構に飛びつくものだ。


「えっと……お邪魔、でしたか?」


「……いや。ただ雑談してただけだから、気にしなくていいよ。で、ご注文は? ちなみに今はココアしか出せないぞ」


「ふふっ。分かりました。それでは、ココアを一つ」


 マスターがいたら他のメニューも出せたんだろうが、生憎と今はお昼寝中だ。


「虎居くんはよくこのお店に?」


「うちの常連。元々、俺も京介も中学の頃からずっとこの店の常連だったんだけどさ」


「そうだったんですか」


 とりとめもない雑談だが、果たしてそんなことをするためだけに来たのだろうか。

 ……そんなわけがない。昨日まで俺と真白の間には何の接点もなかったのだから。


 温かいココアをカップの中に注ぎ、提供して、


「……それで。今日は何の用で来たんだ?」


 本題に入るように促すと、真白はそっと目を伏せるだけ。


「……喫茶店に来るのに、特別な理由が必要ですか?」


 そう言われてしまっては、店側の人間としては弱い。


「……といっても、特別な理由があって来たんですけどね」


 あるじゃねーかよ。


「普段から閑古鳥が鳴きまくってるような店だけどさ。いつ客が来るか分からないし……話しにくい内容なら、今のうちにしといた方がいいぞ」


「そうですね……分かってはいるのですが、私としてもそれを言葉にするのに、その……勇気が必要になるお話なので……」


 ちびちびと可愛らしくココアを口にする真白。

 うっすらと頬は紅く、恥ずかし気に目を伏せるその様子を見て。

 健全なる男子高校生としては、ある一つのことが頭を過ぎるのは仕方のないことではないだろうか。


(えっ。なにコレ。もしかしてアレか?)


 告白。なんていう言葉が、頭を過ぎる。


 ……いや、分かっている。世界はそんなに男子高校生にとって都合の良いものではない。


 妄想なんぞ容易く木っ端微塵にしてしまうことは分かっている。分かっているが、それでも期待というものを抱いてしまうのが、悲しきかな。男子高校生という哀れで滑稽な生き物の習性なのだ。


 その点、俺は冷静だ。確かに期待はしているが、せいぜいが半分。それだけあれば、心を平静に保つには十分すぎる。


 フッ……何しろ俺は現実というものを『理解わかってる』人間なんでね。ここはクールかつハードボイルドに振る舞い、真白が話しやすいようにしてやろうじゃないか。


 まあ、見せてやろうじゃないか……大人の対応ってやつを、な。


「そ、そそそそそそそれで? にゃにを話しやがれるんですかね?」


「は、灰露くん。大丈夫ですか? 何やら取り乱しているようですが……」


 情緒不安定か!


 ……くそっ。どうやら告白という、人生における一大イベントを前にして、この灰色の脳細胞も動揺を隠せないらしい。流石は学園の人形姫。真白桜月だ。やるじゃないか。


「お、俺のことは気にしなくていいよ。話があるなら、どうぞ」


「えっと……はい。そうしますね」


 真白はカップを置き、息を整えるように呼吸を行う。

 制服の上からでも分かる豊かな胸が小さく上下し、サファイアのような美しい瞳が、じっと俺の姿を包み込んだ。


 やれやれ……真に魅力のある男というものは罪深いな。無意識のうちに学園のアイドルを魅了してしまうとは。


 まあ、俺は今フリーだし? 告白されたら断る理由もないし?


 返事は『はい』か『イエス』の二つに絞ってもいいな。

 今度こそ余裕ある男としてクールに……ハードボイルドに決めてやるぜ。


灰露夜音はいろやおとさん。私と……恋人のフリ・・をしてくれませんか?」


「はイエスッッッ!」


 ………………ん?


「おい真白。お前、今……なんて言った?」


「え? ですから、私と恋人のフリ・・をしてくれませんか、と……」


「………………はい?」



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