11年目、三陸へ

 2011年、3月11日。11年前の今日、この地を大地震、そして大津波が襲った。


 私は縁があって、この春から三陸に住むことになった。ちょうどこの前、引越し作業をあらかた終えたばかりだ。今居るこの真新しい建物は震災後に建てられたもので、老朽化もあって津波に耐えた以前の建物は去年から解体工事が行われている。


 今年で震災から11年目。この町は住宅の高台移転を決めた地域で、震災遺構として残されたもの以外は、震災以降に建てられたものばかりになった。港も整備され新しい市場が稼働しているし、大きな被害を受けた駅も、今では立派な駅舎に建てなおされている。


 あれから11年。震災以降に生まれた子どもたちが、小学校高学年になるだけの月日が流れた。震災当時小学生だった私も今は大学生、本当なら就活をしなければならない年齢になった(院進を目指すのでほとんどしていないけれど)。時間が経つに連れて震災を知らない世代が増えて、震災を語り継げる者は減っていく。それは仕方ないことなのだけれども、だからといってそのまま風化させて良い訳じゃない。


 東北は、あれから必死に立ち上がろうとしてきた。あんなにあった仮設住宅も、今は目にする事は無い。海の近くであれだけ沢山転がっていたガレキも、仙台の中心部でさえうねっていた道路も、今はどこにも見当たらなくなった。間違いなく東北は、前に進んでいる。


 だけど、決して震災が終わった訳じゃない、と感じることもある。


 三陸周りは未だあちこちで道路工事が行われていて、細道に入るとまだ未舗装路が残っていたりする。引っ越すにあたって買って貰ったクルマ(足が必要になった)に付いているカーナビは、三陸周りでは有りもしない道を案内したり逆に新道を案内してくれなかったりする事がしばしばある。これもこの11年で、東北が、三陸が頑張ってきた証なのだろう。


 昨年は行けなかったけれど、一昨年までに数度、葛尾村という福島県の小さな村を尋ねる機会があった。葛尾村と言うとなかなかピンと来ない方も居るかもしれないが、「鉄腕ダッシュでTOKIOが稲作をしている村」と言えば分かる方も居るだろう。原発事故の影響でまだ帰宅困難区域が残るこの村は、今もまだなお自分の家に帰れない方が居る。あちこちに黒いフレコンバッグが積み上げられていて、除染作業が終わったと言えどもまだその土は残されたままになっている。それに、これだけの時間が経つと他の場所に繋がりや生活基盤が出来たりしているものだから、「除染が済んだから帰って良いですよ」と言われたところで戻ってくる人も多くはないそうだ。


 あれから11年。決して短くはない時間が過ぎた。

 私は血筋こそ東北だけれど、震災の時には東北に居なかった。だから、私はほんとうの意味では震災を知らない。一番大変な時を知らない。

 でも、私は震災前の東北を知っている。震災後の東北を知っている。東北の今を知っている。そしてこれからきっと、三陸のことも知ることになるだろう。


 震災の時を覚えている最後の方の世代の人間として、そして東北に縁のある人間として、私はいつまでも震災の記憶の風化に抗おう。


 私は、3.11を忘れない。

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