あの日のこと


 2011年、3月11日。当時まだ沖縄県の小学生だった私が地震の一報を聞いたのは、通っていたスイミングスクールの送迎バスの車内だった。いつもなら「民謡でチューウガナビラ」なんて何て言ってるんだか分からない(失礼!)方言だらけのローカル番組が流されているのに、あの日はニュース番組が流されていた。


「東北地方で再び強い地震がありました。宮城県で震度5強、海岸沿いの情報は入ってきていません」


 この時、私はまだ事の重大さに気付いていなかった。カーラジオから流れてくるアナウンサーの言葉に違和感を覚えはしたものの、何が起こっているのかイマイチ分かっていなかった。


 ――みんな、大丈夫かな?


 はっきりとは覚えていないけど、多分その程度にしか思っていなかった。ただ、


「今すぐ海岸から離れて下さい。東北地方に大津波警報、全国各地に津波警報が発令されています」


という言葉に、『今日、スイミングなんかに行って大丈夫かな?』と思ったことは今でもはっきりと覚えている。同時に、「何で先生、こうなってるって教えてくれなかったんだよ」と不満に思ったことも。


 私が通っていた小学校は海抜10数メートルと高い位置にあったけれど、海から1キロもない位だったし、海辺に住んでいる人も多かった。実際、私が住んでいた所は海抜2メートル、海まで直線距離でおよそ200メートルほど。津波到達予想時間まで余裕があったとはいえ校内放送も何もなし、というのはあまりにも危機意識が無さ過ぎたのではなかろうかと、今になって思う。


 それはさておき、泳ぎ終わった私は、迎えに来た母親からの言葉で、あまりにも自分が軽く考えすぎていたのだということを知った。


「知ってるかもしれないけど、東北で大きい地震が……」

「ラジオで聞いたよ。震度5強とかって……」

「そんなもんじゃないよ、宮城で7……」


 信じられなくて、一瞬で頭の中が真っ白になったことを、今でも覚えている。地震直後に電話、その後はメールでやり取りが出来たらしく親戚筋の無事は確認出来たと伝えられて、そして津波が来たらウチもマズイからということで避難することになった。


 確かその時、イオンかどこかのフードコートで夕飯を摂ったのだが、近く置いてあったテレビから流れてくる映像が、現実感の無いものだった。街が黒い濁流に呑まれて家屋や車が無秩序に流されていく様を、漏れた燃料に引火して辺り一面に炎が広がっている様を、ただただ画面越しに見ていることしか出来なかった。


 特に何度も使っていた仙台空港に津波が押し寄せている映像は、信じられないものだった。だって、仙台空港がそこまで海に近いイメージなんか無かったから。それなのに、車やヘリコプターが流され、人々が上の階に集められている映像は、私にはすぐに受け入れられる様なものではなかった。


 結局、何の被害も無く済んだ訳だが、遠くに居た私には何も出来なかった。交通網が寸断されたから現地に行けず、物を送ろうにも東北には無理だと言われ、そして小学生に出来ることなどほとんど無かった。




 今日であれから10年。今でも、私に出来ることなどそう多くない。ましてや、このコロナ渦では。


 ほんの微力でしかないだろうけれど。震災の記憶を、繋ぐこと。震災を風化させないこと。それが何も出来なかった私の、せめてもの行動。 


 ――私は、震災を忘れない。

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