第35話 リヒャルト・レダ・ロルム
「御当主、危険です。余計な接触はなさらない方が」
タムタム族には珍しい白髪の男が、足音をほとんどたてずにリヒャルトの背後に立つ。
彼は飛行艦への積み込み作業が行われている風景を見ながら、戦場には不似合いな豪奢な彫刻の施された椅子に腰掛けていた。
紅茶は第一次蟲戦後に王国に持ち込まれたが、今でも人気は高い。
「すまないね、レオネル。嫌いなのだよ、ああいう手合いがね。『大転移』前の事などすっかり忘れ去り、この世界の住人に墜している」
台詞のわりには春の日差しのような顔で涼やかに笑っているこの男が、レオネルは恐ろしかった。
ロルム家には先代当主の時代から仕えているが、先代は緩やかな衰退をよしとする穏やかな人物だった。それが、この男が当主となってからすべてが変わった。
「だから少しばかり顔を見て、からかいたくなった。戦場処女は卒業しただろうからね」
リヒャルトは腕を組みながら、朗らかに嗤った。
この男は屈託のない笑いを浮かべながら、人の首を刎ねることのできる人種なのだ。
「それで、『始祖の巨人』がこの地に存在するのは確実なのかい」
「あくまで推定ですが。BUGが新種を投入してまで、この地に据えようとしている形跡があります。情報部に潜入している我が家の者からの情報です」
「いいね、実に良い。いよいよ、我々の祖先が犯した罪とのご対面という訳だ」
細い身体を震わせつつ、実に愉快そうに昏い愉悦の表情を浮かべる。
幼い頃のリヒャルトはこうではなかった。
先代が奥方を早くに亡くされてから、すべてが狂い始めた。
あの穏やかな男だった先代が、リヒャルトの前でだけは暴君に変貌した。
少しでも気に入らぬことがあれば大声で詰り、あまつさえ鞭で
そして先代が心臓病の発作で他界したあの日、彼は代々ロルム家当主が継承してきた禁書庫の鍵を得た。
その禁書庫は大転移前のものまで含めた膨大な書物を収蔵しており、ロルム家が管理してきたものだ。
ロルム家当主は代々その禁書庫の中に収められている蔵書を決して持ち出さず、当主以外の閲覧を堅く禁じてきた。
まさに開かずの禁書庫であり、先代を含めた歴代当主は近づくことさえほとんど無かった。
「まったく、閲覧を禁じるはずだ。クソ当主どもめ」
高笑いしながら禁書庫を出てきたあの日のリヒャルトを、レオネルは今でもありありと思い出す。
あの日、優しかった少年は二度と戻って来ないのだとレオネルは思った。
「私は恐ろしいのです、御当主。『始祖の巨人』などという伝説の存在がまさか、この世界に存在しているとは。大転移で『向こう側』に置き去りになっていたはずでは」
「それは私にも分からない。ただ、推測することはできる。おそらく『巨人』どもは、我らルフトバーンを確実に滅ぼすために、それなりの策を講じていたはずだ」
「異世界に逃げた我らを、確実に滅ぼす策ということですか」
「そういうことだな。おそらくは、大転位を可能にした
リヒャルトは忠実な配下の察しの良い言葉に気を良くしたのか、朗らかに笑いながら翡翠の瞳を瞬かせる。
その様子を盗み見ていた魔法士の娘たちの何人かが、黄色い声をあげながらリヒャルトを指さしている。
それに対し、リヒャルトはわざとらしい仕草で手を振ってやる。
その様子に娘たちの声はますます大きくなる。
さすがに近寄ってくる者はいない。地位の隔たりが大きすぎて、貴族の娘であるからこそ近寄りがたいのだろう。
「……であるなら、『始祖の巨人』がこの地にある理由も説明がつきますな。それで、どうなさるおつもりなのです。危険な存在であることは我らにとっても同じはず」
「そうなんだよねぇ。だからこそ、国際連盟軍にはせいぜい頑張ってもらおう。彼らとて、『始祖の巨人』がなんたるかを知れば、是が非でも潰したくなるはずだ。このまま北米を捨てるにしても、南米までは失いたくないはず。であるなら、彼らに情報
を提供したうえで、的確に煽ってやろう」
仄暗い愉悦に浸りながら、紅茶の入ったカップを揺らす。
楽しくてたまらないという顔だった。
「恐ろしい方だ、あなたは。BUGや巨人より、私はあなたが何より恐ろしい」
「光栄だね、レオネル。君に評価してもらえるのは私の喜びだよ。ほかの三家の間抜けどもはどうでもいい」
少しばかり冷めた紅茶を飲み干したリヒャルトは、指だけで紅茶のおかわりを要求する。
レオネルは手慣れた仕草で、ポットから紅茶を注ぐ。
「『剣の貴族』のヴァルドゥ家、『
「……それで、どうなさるおつもりなのですか」
「今さら、元の世界には戻れぬ。だが、この世界も退屈だ。堕落した祖国、ろくでもない地球の国々、私は飽きた。だから、『
リヒャルトはもてあそんでいた紅茶のカップを気怠い顔で地面に投げ捨てる。
地面の石に当たって砕けたカップから流れ落ちた琥珀色の液体は、あっという間に北米の大地に吸われて消えた。
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