第14話 十六歳の殺人
――十三年前
満洲の地は荒野である。
少なくとも、剣京輔少年にとってはそうであった。
満洲帝國に駐留する帝國軍人一家の長男として、この地で生を受けた彼にとってはこの満洲の地こそが故郷である。
満洲北方の軍事要塞都市、
彼が物心つく前には満洲人の使用人もいたというが、今は彼の僅かな家族だけが住んでいる。
家族構成は最近中学校にあがったばかりの妹と、小学生の弟、そして年の割には若く見える母親、そして家を留守にすることの多い陸軍中尉の父であった。
かつて第一次蟲戦における激戦地となったこの満洲の地には、いくつも遅滞防御を行うための防衛拠点が築かれている。
BUGの支配する土地となっているシベリア方面から、再侵攻があった場合に備えているのだった。
それは、かつて異民族の侵入に備えるために建設された万里の長城を思わせるものであった。歴史における万里の長城は、結局は異民族の侵攻を防げなかったのだが。
父親が家を留守にすることが多いのは、その防衛拠点に勤務して日々訓練に明け暮れているからだった。
母はいつも、「こんなことなら内地の実家にいるのだったわ。どうせあの人はめったに帰ってこないのだから」と愚痴を言っていた。
京輔はそんな母親の愚痴に黙って相づちをうってやることが多かったが、それは母親が聞き役がいなければヒステリーを起こす類いの女性だからであった。
その日、彼は自室にこもり本を読んでいた。
蜂の生態に関する本であり、黄色雀蜂の恐ろしげな顔の写真を眺めていた彼は、サイレンが鳴る音に気付いた。
その狂ったように鳴る不気味なサイレンは、BUGの来襲を告げる警報音であった。
本を閉じた彼は、広い庭が見渡せる窓へと近寄る。
――さて、どうしたものか。
彼は窓の外を見ながらゆっくりと思案している。
この邸宅から斉斉哈爾市内までは自動車で20分ほど。
彼の父親はBUG警報が発せられ次第、斉斉哈爾市内の
剣家が市内ではなく郊外に居を構えたのは、母が『要塞内はごみごみしているし、空が見えないから』と文句を言ったからだ。母のわがままに付き合った父親を、京輔は恨んだ。
庭では番犬が吠えていた。
父が内地から連れてきた大柄な柴犬だ。すでに老犬で日中は寝ている時も多い。
とはいえ、自らの仕事を怠る気は無いようだ。彼が吠えている先を見ると、生け垣を乗り越えようとしている数人の男が目に付いた。
「BUGがここまで来る可能性もあるというのにな。目先の欲に負けたか」
呆れとも、驚きともつかぬ表情で京輔はひとりごちる。前からこの邸宅は目をつけられていたのだろうな、と思い当たる。サイレンから十数分しか経っていないのに、行動が思い切りが良すぎる。
日本人といえば金持ちと見られているのだろうか。
尉官でしかない父の稼ぎは、さほど多いとは言えないのだが。
京輔は落ち着いた足取りで部屋を後にすると、階段を降りて父の書斎へと向かう。本来は父の許しが無ければ立ち入ることは許されない場所だった。
しかし、京輔は滅多に家に帰らぬ父の許しなど得るつもりは毛頭なく、雑多な蔵書は彼の知識欲を満たすために使われていた。
今はその蔵書に用事がある訳ではない。
彼は一つの本棚に両手をかけると勢いよくスライドさせる。本棚は本棚の底につけられたいくつかの滑車により、金属製のレールの上を滑らせられるように工夫されているのだった。
本棚をどかしたところに現れた壁にはいくつかの銃架がつけられており、それぞれ銃が掛けられている。このいささか映画じみた仕掛けは、彼の父が趣味の銃を収納するために作らせた仕掛けだ。
スパイ映画好きでもある父らしい、趣味的な収納だった。
京輔はこの仕掛けを書斎に出入りするときに偶然見つけたのだ。彼は銃架にかけられた銃の中から、年代ものの小銃を手に取る。
彼の目から見るとあまりに古色蒼然に見えるその小銃は、民生用に払い下げられた三八式歩兵銃であった。
物持ちの良い帝國陸軍であっても、さすがに現役からは退いている。今では古式銃の
彼の父親は無論、前者であった。ときおり、猟銃としてこの銃を用いている。
父とともに猟に出たときに頼んで撃たせてもらった事もあるので、この銃が実働品であることは確認済みであった。
床の紙箱から、三発ごとにクリップで纏められている
そして、手慣れた手つきで装填し、安全装置を解除する。
――ここまでは良い。だが、ここからはどうなのだ。
京輔は年齢には不相応の冷静な思考を巡らせながらも、さらに慎重にならねばと自分に言い聞かせた。
その思考を遮るかのように、ガラスの砕ける音が響く。おそらくは施錠を破るよりも、ガラスを割った方が早いと考えたものがいたのだろう。
父から教わった通りに安全装置を解除しながら、京輔は音のした居間の方へ急ぐ。
たしか妹は友人宅に出かけていて、門限の夕方6時まで市内にいるはずだ。
居間には母と、小学生の弟がいるはずだった。
見慣れた廊下が別の建物のように見える。
京輔は歩兵銃を構えながら、蹴破るようにガラスのはまったドアを開ける。
低い姿勢で居間へと躍り込んだ京輔は、母親に覆いかぶさっている男と目が合う。金品目当てで乗り込んできたのだろうが、若く見える母の姿に行き掛けの駄賃とでも思ったのだろうか。
瞬時に京輔は相手が道理の通じない相手であることと、その武装を見て取り抗戦を決意した。
火の付いたように泣いている弟にも構わず、京輔はその男へ向けて迷わず発砲した。母に当てないように威嚇のみで当てないつもりだった。
しかし所詮は素人。とっさの発砲すぎたのか、男の頭蓋へと命中する。六.五ミリ口径弾は男の眉間付近に命中し、頭蓋骨を粉砕しつつ脳漿を飛び散らす。
ほぼ一瞬にして仲間の命を奪われた事に対して、部屋へ入ってきていた男の仲間二人が激昂する。
男の一人が、自動拳銃をこちらに向けて発砲しようとする。自分のことは棚に上げて、素人のような構えだと思った。
拳銃とはいえ反動をまるで考慮しない、片手のみの不安定なかまえ方だった。
京輔がボルトアクションで弾丸を装填して発砲するのと、男が緊張で震える手で拳銃を撃ったのはほぼ同時だった。
九ミリ拳銃弾は京輔の左肩をかすめただけだったが、歩兵銃の弾丸は男の腹部へと命中する。
二人の男の生死を確認する前に、残された最後の一人は大型のナイフを引き抜くと京輔に向けて飛びかかる。
のんきに再装填をしていては刺されてしまうと思った京輔は、歩兵銃を鈍器代わりに男へ殴りかかる。
ナイフを銃床で弾き飛ばした京輔は、そのまま上に振りかぶり銃床で殴りつける。
肉と骨が潰れる感触を気持ち悪く思いながらも、京輔は二度三度と固い銃床を鈍器がわりに男の頭部に打撲を与える。五回ほど殴りつけたところで、男は奇妙な声をあげて動かなくなる。
知らぬうちに、京輔は全身が汗でびっしょりと濡れていることに気付く。
いつの間にか泣き止んだ彼の弟は、怯えたような顔で京輔を見上げている。
「心配しなくていい。わるいやつらはやっつけたからな」
その言葉を理解しているのかいないのか、弟はしゃくりあげながらその場に座り込んでいる。
京輔は頭蓋を割られた男の死体の下敷きになっている、自分の母親に声をかける。
「お母様、ご無事ですか」
「ヒッ!近寄らないで」
つとめて丁寧な口調で呼びかける京輔に、母親は怯えたように後ずさろうとする。しかし、上に乗っている男の死体が重すぎてそれさえ出来なかった。
京輔は死体を引きはがし、床に寝かせる。
そんな京輔にまだ怯えている母は、再び彼の元から後ずさる。
自分の血まみれの姿を見て苦笑いする京輔を見て、母の震えはさらに強まる。
「ひどいな、母さん。僕です、京輔ですよ」
京輔は苦笑いの表情ながら、不本意だという目をしてみせる。
「あなたは自分が何をしたか分かっているの?」
彼女の目には息子を叱る母親ではなく、見知らぬ怪物を見る少女のような怯えがうかんでいた。
急になにもかもが馬鹿らしくなり、京輔はなげやりに微笑む。
そして、銃の銃身がゆがんでいないことを確かめる作業を始める。
「何って、金品や女に目がくらんだ暴漢から母を護っただけですよ」
「女って……あなたは人を殺したのよ?」
「金品のために銃やナイフを持ち出す連中です。獣と同じだ」
弾丸を装填し、安全装置をかけた京輔はこともなげに話す。
「だからって…殺していいとは。捕まえれば」
「ええまあ、そうできれば良かったのですが。相手も武装していましたからね。正当防衛ということで納得していただけませんか」
子どもをあやすような声に、彼女は絶句する。
「あなたは何を言っているの……」
異星人の言葉を聞いているような顔で、彼女は自分の身体を抱き締める。自分がお腹を痛めて産んだ子の言葉とは思えないのだった。
「母さん、あのサイレンを聞かれましたよね。もはや、今は『戦時』なのです。父が言っていたとおり、一刻も早く市内へ逃げ込まねばなりません。分かりますね?」
「わたしに指示をしないでちょうだい。ええ、分かるわよ。わたしたちは逃げなければいけない。栄輔ちゃん、ごめんね、怖かったでしょう」
泣きじゃくっていた栄輔は、母親に急に抱き締められて戸惑った。
が、すぐに笑顔になる。
「わたしが車を運転する。ええ、逃げるわ。」
「それでいいのです、母さん。運転はお任せします」
京輔は銃を担ぎながら、倒れている男たちに目を向ける。相手も素人のような連中だとはいえ、よくまあ生き残れたものだと思った。
そして、はじめて人を殺したことに対して、やはり後悔も怯えもなかった。
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