第2話 寝覚の床

 その日のヒルデリアの寝覚めは最悪の一言だった。


 この飛行艦『黒鯨マハ・エールカ』で彼女に与えられている士官個室の空調魔法は問題なく動作していた。


 それにもかかわらず、下ろしている長い銀髪は寝汗を含んでぐっしょりとしている。


 夜着として来ていた薄いバハル絹の下着も汗を含んでいて、今すぐに脱ぎ捨ててシャワーを浴びたい気分だった。


士官室の入り口の壁面は魔法マハルカ通信装置レキタイルを兼ねた姿見が備え付けられているが、そこに映った自分の顔はひどい顔をしていた。


 原因ははっきりしている。


 強いストレスを抱えている時に見るいつもの夢だ。


 少女時代に、誇らしく思った幼年学校での殊勲を当然褒めてもらえると思い込み、見事に裏切られる夢。


 子供のころはどこに行くにも姉と二人並んで歩いていたものだった。

 

 だが、少女時代を早くに終えた彼女とは、見据えているものが違い過ぎた。


 ヒルデリアは母のような英雄たらんとして、母の足跡を追いかけて生きてきた。


 第二次対蟲戦争の天王山、ハイデラバード防衛戦で三桁に届く驚異的なBUG撃破数を達成した王国の英雄、エレクシア・ヴァルドゥ。


 それから二十年近くの歳月が経過した今でも、彼女は国民的英雄だった。


 彼女はインド解放の総仕上げとも言えるラクナウ攻略作戦で命を落とした


 王都には銅像がいくつも建てられ、記念切手が発行され、昨今でも映画の題材にされるほどに国民的人気が高い。


 王国内だけでなくインド各地でも彼女は未だに人気が高く、インドは王国にとって日本に次ぐ友好国である。


 そんな母を褒めそやす人々に囲まれて育ったヒルデリアは、自身も英雄たるべく魔法の鍛錬と軍人としての修練を欠かさなかった。


 一方で姉のネフェルテリアはといえば、まだ成人もせぬ頃から次代当主として政治の世界へ放り込まれる事になった。


 幸運だったのは出征するエレクシアの名代として政治的手腕を発揮していたエレクシアの妹、キグナトゥが彼女に政治のイロハを自ら教え込んだ事だった。


 彼女は実業で蓄えた財力と名家の政治力背景に、議会で貴族院議員の重鎮として君臨していた。


 王国政界で海千山千の民選議員たちと、丁々発止のやり取りをする才女であり、その薫陶はまさに値千金であった。


だからこそ、ネフェルテリア自身も後に、貴族院議員として政治の世界へ漕ぎ出すことが出来たと言える。


 年若く美貌を誇る彼女に、日本人との結婚を勧めたのもキグナトゥであった。


 そんな二人だからこそ、あの日二人は決定的に衝突した。


 あれ以来、ヒルデリアはごく限られた機会にしか姉と顔を合わせなくなった。


 彼女が近衛の中で順調すぎる昇進を果たし、掌百長大尉となっても、お祝いの一言すらなかった。


 お互いに置かれた環境が違い過ぎて共通する話題など無かった。


 そして、何より三人の娘を抱える姉は、母として政治家として多忙に過ぎたのだった。


 ヒルデリア自身も軍人として多くの部下を率いる立場となり、姉のことを気にしている余裕はなかった。


「もう自分のなかで、折り合いをつけたとは思っていたのだがな」


 自嘲気味に呟くと、彼女は寝床から立ち上がろうとする。


「姫様、そろそろ士官控え室に向かう時間です。師団長からの御訓示がございますので遅れる訳にはいきません。入ってよろしいですか」


「姫はやめろというに……かまわない、入れ」


 短くそう言ったヒルデは、まだぼうっとしている頭を振りながら短く解錠の呪文を唱える。どうにも意識が完全に覚醒していないのだった。


「ユルスラ個人副官、入ります」


 生真面目にそう言って個室に入ってきたユルスラは、太い眉をわずかにひそめて主人の様子を眺める。


 だが、次の瞬間にはいつもの表情に戻り、壁面に触れて呪文を唱える。


 収納魔法によって壁面内の空間に納められていた軍服一式を取り出し、彼女の元にもっていく。


「すぐにお着替えください」


「シャワーを浴びたいのだがな」


「残念ながらそのようなお時間はございません。清浄クリル魔法マハルカで我慢なさいませ」


ぴしゃりとそう言うユルスラに、ヒルデは恨めしげな視線を送る。


 鉄面皮を決め込んでいるユルスラは、整った顔の表情を微動だにしない。


「分かった。今はそれで我慢するさ」


 ユルスラは蒼く輝く理力石の填まっている、櫛のような道具を差し出す。


 清浄クリル魔法マハルカの呪文が封じられたもので、清浄クリル魔法具マハタールの名前で呼ばれている。


「我が身、我が魂を清めよ、青き水の精霊」


 彼女が短く発動呪を唱えると、理力石が光り輝いてヒルデの体を包み込む。


滝つぼの裏にでもいるかのような涼やかな風が全身を包み込み、ヒルデの体のほてりが収まっていく。


 すでに全身の汗は水風呂でも入ってきたかのように拭い去られており、不快感が消えていた。


 汗や皮脂といった余計なものは青白い炎となって空中で燃焼し、一瞬で消える。

 

 元は戦場いくさばで風呂に入れない時に、身体を清浄を保つために発達した魔法であった。

 

 数十秒ほどでその輝きは収まり、彼女はその魔法具をユルスラに突き返す。


「着替えよう」


 そういうなり、彼女は魔法で清められた夜着を脱ぎ、ユルスラに渡していく。


 ユルスラはうやうやしくそれを受け取ると、壁面に収納していく。


 軍人らしい無駄のない動作で、地球人アスタシャから見ればいささか装飾過剰にも思える近衛第二種軍装に身を包んでいく。


「胸のあたりが苦しいのだがな。なんとかならないのか」


 自分の豊かに過ぎる胸の部分の締め付けが気になるのか、飾緒のかかっている上から胸をさする。


「また成長でもされましたか。もうそんな年でもありますまいに」


「太ったと言いたいのではないだろうな。鍛錬を怠ってはおらぬ」


「いえ、そんなことは。どうしてもというのであれば、後方から送らせますが」


「良い。前線に出ようという武人がようぜいたくは言えぬ」


最後に後ろに鳥の尾羽のような紐が突き出た、やや大きなペラムル帽を被る。


 近衛の士官にしか許されない軍帽ではあるが、地球人からペリカンとされる原因でもある。


 通説ではペラムル帽を被った士官がペリカンを思わせるからという話だ。      

 

 鳥の図鑑でペリカンの写真を見たヒルデは、「実際のペリカンとは似ても似つかぬではないか」と、妙な怒りを覚えたものだ。

 

 寝台の上に無造作に放り投げられていた無骨なデザインの軍用端末トロンフォンを手を伸ばす。


 そのメタリックブルーの軍用端末は、同盟国の企業がルフト・バーン国内の工場で生産している製品だった。


 裏面には樋村電子工業ハイテックの文字が、さりげなく刻印されている。

 

 ヒルデがそれをひっくり返し、側面のスイッチを押して液晶画面を表示させる。画面に映っている現在時刻は、集合時刻の10分前だった。

 

おそらくはユルスラの計算通り、というわけだ。

 

なんとなく面白くなく感じたが、表には出さない。


「師団長を待たせる訳にはいかぬ。ゆこう」


 ヒルデが手を触れたドアが音も無く開いていき、薄暗い照明魔法で照らし出された飛行艦の狭い廊下が現れる。


 彼女は 足早に廊下へと出て、慣れた足取りで士官控え室への道を急ぐ。


 影のように、ユルスラはそれに付き従う。

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