第5話 統合軍令部
八月二十九日 立川市統合軍令部本部ビル
帝國において長年の懸案だった陸海軍の不毛な対立が決着したのは、昭和十六年(西暦一九四一年)十二月八日から始まった、第一次蟲戦がきっかけであった。
昭和十四年に中国延安に通称『
帝國陸軍はその情報を掴んでいたが、関東軍の独断専行に苦々しい思いをしていた陸軍中央は再三の派兵要請を握り潰した。
その結果が関東軍と支配下の満洲帝国を壊滅寸前まで追い込んだ、第一次
同時に樺太方面でも
海軍による黄海への機動部隊派遣、そして樺太決戦における戦艦部隊の艦砲射撃が功を奏した結果、なんとか
その過程で関東軍をはじめとする陸軍部隊が見せた醜態により、政治勢力としての陸軍は壊滅した。
国民世論はBUGという訳の分からない脅威を認識するより、陸軍の不甲斐なさをやり玉にあげて溜飲を下げることを選んだのだった。
新聞紙上において、陸軍の解体を言い出す自称軍事専門家まで現れる始末だった。世論の高まりを受けて、海軍陸戦隊をアメリカに倣い「海兵隊」として独立させると同時に、陸軍を解体吸収するという提案まで海軍の一部から出た。
さすがにこれは良識のある軍人や政治家が強硬に反対したため立ち消えになったものの、戦後の陸軍の立場を象徴するような事件ではあった。
陸軍内に「軍人が政治に関わることは厳禁、国民には常に頭を下げてやり過ごせ」という風潮が生まれたのもこの頃だった。
海軍はといえば、一次蟲戦時における作戦の主導権をめぐっての陸海軍の対立の経験から、大本営という組織の欠点を痛感した。結果、海軍主導のもと大本営を廃止が提案された(無論、既に発言力を失った陸軍側に拒む力はなかった)。
諸外国の軍事組織に対する研究委員会による調査が行われ、準備期間を経て陸海軍の統一指揮を行う組織『統合軍令部』が発足した。
戦後に発足した第二次岡田啓介内閣は、これらを背景に大鉈をふるって帝国憲法を改正。陸海軍統帥権干犯問題を引き起こした、帝國憲法の統帥権条項に制限を追加した。
また、政軍問題を引き起こしていた軍務大臣現役武官制を廃止した。政軍関係を整理せねば
陸軍少将の階級章を付けた初老の男、中曽根公康はそうした時代の空気をたっぷりと吸ってきた将官の一人だった。
高い知性を象徴する広い額と、剃刀を思わせる鋭い風貌が印象的な彼は、大陸での戦いを幾度も経験していた。親指を欠いている左手が、その戦歴を無言で証明している。
その彼でさえもが、その男の持つ独特の胡散臭さに閉口していた。
広大な敷地が必要とされる事から、立川市郊外に創設された広大な統合軍令部の大会議室には、風景を楽しんでいるものなど一人もいなかった。
会議の出席者は明らかな異分子である男に、侮蔑と憎悪の視線を向けていた。
肩書きは一応、「航空宇宙軍(一次蟲戦後に新設された新しい軍種である)の大佐、現在国際連盟軍司令部に出向している」となっている。
しかし、物腰にまるで軍人らしいところがまるでない。
情報畑の人間かとも思ったが、その割には態度が軽薄に過ぎた。下らない冗談を言っては、一人で笑う。
航空宇宙軍の軍服を着ていなければ、そこらの学生を連れてきたのではないかと思えるような男だった。
容姿は人並み、体型は胴長短足という典型的日本人であり、腹回りのぜい肉が目立つ。
加えてやぼったい銀縁眼鏡といった外見では、軍人の中で重きを置かれなくて当然と言えば当然であるかもしれない。
しかし、この場にいる誰もがこの男の持つ不気味さを知っていた。
国際連盟に始まり、与党議員との会合、果ては首相官邸にも出入りしているという噂だった。
まさしく、
「さて、皆さん昼食も済まれたかと思いますのではじめましょうか」
男は顔にルイス・キャロルが、愛娘の為に書いた小説に出てくる卵のような笑みを浮かべた。
中曽根は仕出し弁当の容器を従兵に手渡すと、先ほど配られた書類に目を通した。
「軍機」という判子がベタベタと押してあるその書類は、棒グラフと数値の群れで埋まっていた。
「私は瀬戸
瀬戸は芝居がかった態度で挨拶すると、深々と頭を下げる。
「政府の情報によると、帝國の経済状況は以下のとおりです。環太平洋地域への輸出は堅調です。大陸や、英連邦諸国、北米が現在の帝國の経済を支えている訳です」
「前置きは短めにしたまえ。その程度の現状認識は誰もが出来ている」
「まあまあ、何事も手順が大事という奴で。それに、無言の了解ってえ奴が厄介なのは一次蟲戦で証明されてますからな」
中曽根は無言で瀬戸を睨んだが、瀬戸にまるで気にしている様子はない。
陸軍の中で一次蟲戦は悪夢、タブーそのものと見なされているからだった。
「帝國の経済が今までどうにかこうにかもっていたのは何故か、分かりますか?」
「貴様、馬鹿にしているのか?」
胸元の識別章に
「我々が太平洋を掃除していたからに決まっているだろう」
「はは、これは言うまでもありませんか。そのとおりです。帝國は太平洋を外国人の言う『
「北米の陥落でそれが瓦解する、そういうことか?」
それまで黙っていた
「まあそういうことです。海軍サンの能力を信用しない訳じゃありませんが、世界各地の国際連盟軍への補給に面倒が増えます」
「それはその通りだが」
海軍大佐は不満顔だが、しぶしぶ黙り込む。
「皆さんご存知のとおり、日本はこれまで他国に兵器を売りつけることで命脈を保ってきました。
やり手の女衒が田舎から出てきたばかりの少女を見るような顔で、瀬戸は嬉しそうに話を続けた。
「『反蟲の兵器工廠』の名は伊達ではないという奴ですな。しかし、これも顧客と販路あっての話です。北米という市場が無くなるのはあまりに痛い。帝國はどうあっても生き残るために、起死回生の一手を打たねばならない。政府からもそこをなんとかしろとの催促です」
急に部屋の温度が下がったような錯覚に陥り、中曽根は親指のない左手をさすった。
今はとっくに塞がっている傷口に、急に猛烈な痒みを覚えたのだった。
「ひとつはルフト・バーンとの同盟関係の強化です。彼らが持つ魔法工学技術の供与をさらに引き出さねばなりません。もうひとつの方策は…」
瀬戸の笑みがさらなる狂気に彩られていくのが、手に取るように分かった。
中曽根は目の前に座る男が、人以外の何かであるような錯覚に襲われていた。
「…という訳です。そういうわけですが、中曽根少将、表側の作戦はお任せできますかな?」
――既に根回しが済んでいたという訳か。このために設けられたと言っていい会議なのだな。
中曽根は思わず呻きを漏らしながら、運命を呪った。もう少し運があれば、まだこの国に対する幻想を壊さずに済んだものを。
生き延びるとはそこまでに過酷なのだろうか。
一方で自分がその命令を引き受けざるを得ないことも分かっていた。
他の者にやらせる訳にはいかない。
そう思っている自分に中曽根はおかしみを覚え、かすかに唇を捻じ曲げた。
彼は自分で思っている以上に、高潔な人物であったからだった。
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