第2話 ラスト・プレジデント
アメリカ合衆国 サンフランシスコ臨時大統領官邸
-2005年9月4日
「一刻も早く、大統領府をハワイに移動させるべきです」
グレッグ・ジェファーソン大統領補佐官は、意を決した表情で大統領に進言した。
自分自身の
ただ、彼の胸中の愛国心と職業的義務感が、沈黙をよしとしなかったのだ。
「バカなことを言うな。大統領が尻尾を巻いて逃げたとなれば、国民は連邦政府を見捨てるぞ」
ギュンター・ステップシュルツ合衆国大統領は、子犬が吠えるように答える。
昨年、まだ合衆国が平和だった時に行われた大統領選挙を勝ち抜いた男だった。
J・F・ケネディの再来ともいわれる甘いマスクと若さは、特に女性有権者の支持が高い。
一番大きいのは、合衆国大統領を務めた民主党
その意味においても、彼はケネディの後継者と言えるのかもしれない(多くの悲劇に見舞われたケネディ家も、多数の議員を輩出した一族だった)。
ハンドメイドのオーダースーツに、シルクのネクタイといった戦時にあるまじき服装がそれを象徴している。
その出自故か、ギュンター大統領は果断とは程遠く、軍や官僚、シンクタンクといった意見を聞いてから熟慮を重ねて決断する男だった。
――平時ならばよく意見を救い上げる良き指導者足り得たかもしれないが。戦時の指揮官には向いていない。決断力が足りないのだ。
長い時間を政界で過ごしてきた、叩き上げのグレッグはそう判断せざるを得なかった。
だが、そんな親の七光りだけが取り柄の大統領だろうが、マトモに仕事をさせるのが彼の仕事だ。
彼は事前に根回ししておいた通りにエリック・F・ササキ国防長官に、目配せを送る。
エリック長官はかすかに頷くと、能面のような表情のまま手を上げる。
彼は
既に海兵隊を退役しているため
彼を国防長官に推したのはグレッグだが、この英雄の持つ政治的価値を了解している大統領も特に反対はしなかった。人間的に好いていないのは明白だったが。
「
礼儀正しい態度であるにも関わらず、古武士然としたササキの顔にはギュンターですら圧倒される何かがあった。
最近はBUGの大攻勢への対処に追われて睡眠時間はろくに取れていないはずだが、その影響は顔色以外は感じられない。
「よろしい、ササキ君。発言したまえ」
「一刻の猶予もなりません。蟲どもは既にミズーリ川を渡河しつつあります。万が一の事態に備えるべきかと」
「休眠期まではミズーリラインで持ちこたえられる、という予測だったでしょう!」
運輸省長官のミリアム・イアソンが金切り声をげる。
市民運動家上がりの、有事における政治とは何かをわきまえているようには思えない人物だった。
――何でまあ、このヒステリー婆さんを入閣させたんだか。さっさと罷免すべきだ。
グレッグは怒鳴りたくなるのを理性で抑えつつ、ササキの発言を続けさせる。
「国防総省のレポートは、あくまでこれまでの対蟲戦から導きだされたものです。完全にあてにするのは危険ですと申し上げたはずですが」
「くっ…だが、しかし」
大統領は、苛立ちを隠せない表情でササキをにらんだが、意味のないことだと気づき天を仰ぐ。
「
――どうして
ギュンターは大統領執務室に集まった面々を見ながら、そんなことを思った。
――親父が大統領だった頃、この国の首都はもうこのカリフォルニアに移っていた。
我が合衆国はこの半世紀、BUGと呼ばれる未知の存在に脅かされてきた。
恐るべき戦闘力を備える異形の怪物どものために、あの忌まわしき1940年代に我が国は早々に東部を失った。
ここ数十年はミズーリ川流域の要塞地帯を
そう、この春の大侵攻が始まるまでは。
「ササキ長官の意見に賛成です。
大統領より十は年上のマイケル・ホーランド国務長官が、岩のような表情をぴくりとも動かさずに言う。
このいかつい顔の男は、大学時代にアメリカンフットボールのクォーターバックとして有名だった。
その高い身長と身体能力はコンプレックスを刺激するので、ギュンターはこの男も好きではない。
彼もアメリカンフットボールに挑戦した経験があった。だが生来の線の細さはいかんともし難く、大学時代はずっとベンチウォーマーで終わっている。
「
だが、ハワイは
聖櫃計画は、BUGの大侵攻が発生した場合に備えるアメリカの政府機能移転計画だった。
合衆国の各省庁は平時からこの計画の発動を前提に運営されているため、発動から遅くとも72時間以内に移動開始が可能とされている。
「今はそれどころではないでしょう。
ホーランドは、鉄面皮という表現がぴったりの顔で言う。
それに続いて、ササキが口を開く。
「問題は聖櫃計画を実行に移すための兵力です。ロッキー山脈以外に地形障害のない戦闘正面では、すでに兵力の消耗が激しくなっております。防衛部隊はどこも予備兵力が払底し始めています」
ササキの言葉を受けて、グレッグが詰め寄るような口調で提言する。
「大統領、国際連盟軍の派遣を要請すべきです。それ以外に、我が国を守る方法はありません」
黙って話を聞いていたギュンターの顔は、怒気で赤黒く変わっていた。
――これがこの若者の本質だな。
諦観めいたものを感じながら、グレッグは内心でため息をつく。
「君はジャップや
きれいごとを好む民主党の大統領にあるまじき侮蔑表現丸出しの言葉で、ギュンターは唸る。
内心グレッグはこの若い大統領を怒鳴りつけやりたいのを抑えつつ、理性の仮面を被る。
――我が国は、彼らに頼らなければその生存すら危うい現状なのが分かっていないのか、この若僧が。
それにしても国際連盟か。
ウッドロー・ウィルソンという理想主義者というよりは狂人(あのフロイトが分析したというから本当なのだろう)の産物に、我が国が助けられるとは。
「国が亡ぶよりはましでしょう。今は助けを借りる相手を選べる状況ではない」
ホーランドの理性的な反論に、ギュンターは黙り込む。
頭では彼が正しいことが分かっているのだが、いつもやりこめられているのが気に食わないのだった。
もっとも、カリフォルニア州知事を一期務めた政治経験しかない大統領と、その生涯の大半を議員で過ごしたホーランドでは、まるで勝負にならないのが現実だったが。
「よろしい、発動を許可する。グレッグ君、至急日本大使とルフト・バーン大使に面会を求める旨を伝えてくれ」
ギュンターのその言葉は、どう控えめに見ても投げやりなものにしか見えなかった。
閣僚の誰もが、失望と諦めのこもった視線を大統領に向ける。
しかし、若き大統領は国民向けのスピーチの原稿のことで頭が一杯なようだった。
グレッグは内心の感情を無理に押さえつけながら、敬虔なプロテスタント教徒である彼は、大いなる神に祈りを捧げた。
――神よ、合衆国を護りたまえ。
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