第9話 背徳

 劇団【夏の雪】の演目、【愛のざわめき】は、東堂リカにとって、それは素晴らしいものであった。

 特に、脇役ではあるが筒井ユウゴの演技には目を見張るものがあり、粗削りではあるが、主役を食ってしまいそうな勢いとパワーに東堂リカは演目が終わってもしばらくその場を動けなかった。

 演劇は、小さな頃から家族とよく行っていたので目は肥えているつもりではあったが、【夏の雪】のような小規模な劇団を観劇するのは初めてであり、客席と舞台が近いのもあって、演者の息づかい、汗、躍動感、小さな表情の変化まで、すべてを感じる事ができた。

 時折見せる、舞台の上からのユウゴの視線にリカは時々我を忘れそうになるくらいドキドキしていた。

 しばしのスタンディングオベーションののち、もう一度幕があき、演者が横1列に並んで観客に手を振ったり、頭を下げたりして感謝の意を伝える。

 その時、舞台の上のユウゴは、真っ直ぐにリカだけを見つめていた。

 気のせいではない、確かにあの瞬間———時間にしてわずかに1分ほどであったが———ユウゴとリカは舞台と観客席越しに、しっかりと見つめ合っていた。




 リカは、演劇が終わると興奮を纏ったまま、高級スーパーに足を運んだ。

 この後、1年振りに海外出張に行っていた夫が帰ってくるのだ。

 久々に手料理を振る舞うことになる。

(筒井ユウゴさん…素敵だったわ。あの中で一番、輝いていた…)

 買い物をする間、ずっとユウゴの事を考えていた。

 でももう、二度と会う事はないだろう。リカはそう思い直し、夕食の買い出しをすませ、帰路についた。

 リカは、現在25歳。夫の東堂俊介とは家同士のお見合い———いわゆる世間でいうところの政略結婚という形で結ばれた。

 俊介はリカよりひとまわり以上歳上の40歳。

 結婚する直前まで、顔も知らなかった。

 ただ、リカの事はすごく大事にしてくれているし、優しくおおらかで、ケンカなども一度もした事はない。

 生活費もあり余るくらいに送ってくれる。

 何ひとつ不自由しない暮らしを送っていたのだが、海外を飛び回る仕事が多い俊介は、結婚したあともほとんどを外国で暮らしている。

 今回のように帰国しても、2、3日でまた戻って行ってしまう為、結婚しているという実感が全くなく、ここ何年かはもう恋愛感情すらもあるのかどうかもよくわからない。

 帰ってきても嬉しいと思ったことはないし、会話も弾むわけではなく、結婚してから一緒に暮らした日数を考えても、未だに他人と言う気がする。

 リカの想いとは裏腹に、俊介の両親や自分の両親からは、毎日のように「早く跡継ぎを」「孫の顔が見たい」などと毎日のように催促の電話がかかってくるのだ。

 このまま、なにもかも投げ出して誰も知らない所へ逃げて行きたい———何度そう思った事か。



「ただいま。元気にしてたかい?」

「おかえりなさい、あなた。私は元気よ。すぐにご飯の支度をしますから、先にお風呂にどうぞ」

「ああ、ありがとう」

 俊介のコートをハンガーにかけ、トランクの中の荷物を片付ける。

 料理の支度をするためにキッチンに立ったリカは、再びユウゴの事を思い出していた。

 もう一度でいい、会いたい。彼の舞台を観に行きたい。

 彼とどうにかなりたいとか、そんな事ではなく、この日常を少しだけでも忘れたい。

 次の舞台、いつかしら———と、考えている所に、俊介がキッチンにやってきた。

「リカ、しばらく寂しい思いをさせたね。実は、今の仕事が年内いっぱいでカタがつきそうなんだ。それが終わったらもう外国へ行く事はないよ。今度帰ってきたら…子供の事もそろそろ考えてみよう」

「そう…。やっと落ち着けるのね」

「ああ、将来の事もこれからきちんと考えないとね」

「ええ…」

 リカは本来であれば喜ぶべき事を、嬉しく思えなかった。

(いえ、俊介さんとの生活はむしろこれからスタートかもしれないわ。幸せな未来が待っているかもしれない…)

 リカは、自分に言い聞かせるように決意した。

 



「いらっしゃいませ…あっ!!」

「よっ。こないだは観に来てくれてありがとう」

 リカの働くカフェに筒井ユウゴが現れたのは、あの舞台を観に行った日から1週間経っていた。

「こ、こちらへどうぞ…」

 思わぬ訪問者にリカは声が上ずり、口の中が乾いていくのを感じた。

「ありがとう。…やっぱり想像通り素敵な店だ」

 ユウゴは店の中をしばらく眺め、満足そうな表情で言った。

 リカはユウゴを少し奥まった席へ案内すると、メニューを手渡した。

 メニューを渡す手が震えてるいるのがわかる。

 会いたいけど会いたくなかった———なぜこのタイミングなの…

 1週間前、夫との未来を決意したばかりでユウゴの事は忘れようとしていた時であった。

「リカさんのオススメは何かな?それにするよ」

「カ、カプチーノとチーズケーキがおすすめです…」

「じゃ、それで」

「かしこまりました」

 キッチンにオーダーを通し、隠れてユウゴを改めて見つめる。

 直視できないオーラがあるような気がして、近くに行くのを躊躇わせる。

 今まで感じた事のない燃えるような感情。これを恋というのかしら?

 リカは、今まで恋愛という恋愛はした事がなかった。

 言い寄られる事は多々あったのだが、恋というものがよくわからなくて、ほとんどの誘いを断ってきたのだ。

「リカちゃん、カプチーノできたよ」

「は、はいっ!」

 何度か深呼吸をし、店長の淹れたカプチーノを急いでユウゴの元へ運ぶ。

「カプチーノ、おまたせし…あっ!!!」

 リカの震える手元が狂い、カップが床に落ち、派手な音を立てて割れる。

「ごっ、ごめんなさい!」

「大丈夫かい!?」

 ユウゴがすぐさま席を立ち、リカの足元の割れたカップを拾い始めた。

「お客様!申し訳ございません!あとは僕がやりますのでどうかお席へ!」

 店長がほうきと雑巾を持ってカウンターから飛び出てきた。

「僕は大丈夫です。それより彼女の制服が…いてっ!」

 割れたカップの破片でユウゴは手を切ったようだ。

「お客様!大丈夫ですか!?あっ…これはいけない、すぐに手当を…リカちゃん、控室にご案内して。今、雅美に救急箱を持って来させるから」

「はいっ!お客様、申し訳ございません!どうぞ、こちらへ」

 リカは、ユウゴを従業員の控室へ連れていき、椅子へ座らせた。

「本当に…私の不注意で…申し訳ございませんでした!今、救急箱を取ってきますので…」

 何度も何度も頭をさげるリカの腕をユウゴは強く握った。

「お、お客様…!?」

 困惑するリカの顔をじっと見つめながら、ユウゴは満面の笑みで言った。

「ひとつ、貸しだね」

 リカの中の背徳が、ガラガラと音を立てて崩れていった瞬間であった———



 

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