第5話 10年越しの会話
人間、予想しなかった事が起こると声が出なくなるものだ。
第一声を何と言おうか携帯電話を握ったまま鬼塚が考えているところに
「軍曹?軍曹なんでしょ?久しぶりねぇ」と、桜田アヤメの無邪気な声が電話越しに響いた。
「あっ、ああ。なんだ、元気そうじゃないか。どうなんだ?最近、ちゃんと食ってんのか?」
と昔の口癖で自然にそう言ったものの、今や桜田アヤメは泣く子も黙る女帝なので、食うに困る事はないだろう。
だがアヤメは
「ええ、何とか食べていけるくらいは…。それより軍曹の方こそどうなの?あれからちっとも連絡なかったから心配してたのよ。前に会った時にホラ、脚が痛いって言ってたでしょ?」
「ははは、よく覚えてるな。膝がな。もうアレだ、たまに水を抜きに行ってるよ。お前も不摂生には気を付けるんだな」
「あら、あの鬼軍曹が気弱な事を…」
「鬼軍曹ももう還暦過ぎたらただのジジィさ」
「そんな事なくてよ。鬼軍曹はいつまでも鬼軍曹でいてくれなきゃ」
鬼軍曹のあだ名の名付け親は他でも無い、この桜田アヤメである。
30年以上前———アヤメがまだ20歳そこそこだった頃、【夏の雪】の看板女優であった。
その頃は鬼塚もまだ30を過ぎたあたりでまだまだ若く、演劇への情熱が一番ピークであった為、団員達に何度も何度も同じシーンを練習させ、それでも納得いかなかったので今日はこのシーンを一日中するぞ!と言ったら、痺れを切らしたアヤメがついに叫んだのである。
「この、鬼軍曹ーーっ!!!」
鬼塚は、その言葉にビックリしつつも鬼軍曹という言葉に可笑しさを抑えきれず、大笑いしてしまった。それまで張り詰めていた稽古場が一気に和らいだ。
それから、団員は鬼塚の事を鬼軍曹と呼ぶようになった。
ほどなくしてアヤメは劇団を去る事になるのだが、何年かに一度、【夏の雪】のOBを含めたメンバーで同窓会のような集まりをするようになった。
その集まりにアヤメが最後に顔を出したのが10年前。
その後は電話もつながらず、ハガキを出しても返事はなかった。
だが、すぐにその理由に鬼塚は納得した。アヤメの華麗なる女帝への変貌ぶりは、TVやマスコミに連日とりあげられ、連絡は取れずとも何をしているのかはわかるようになったため、それから電話もしなくなった。
「そう言えば…アイツは元気にやっているのか?」
「アイツ…?」
アヤメは一瞬考えたが、すぐに「さぁ、知らないわ。何をしているのか、どこにいるのかも」と、答えた。
だが、鬼塚はアヤメが急に早口になったのを聞き逃さなかった。
———何か隠してるな———
なんとなくだが、長年のカンというやつだ。そしてこの後、多分、話題を変えてくるぞ。
「軍曹は、相変わらず男1人のやもめ暮らしなのかしら?」
———やっぱりな。
「そうだよ、ずーっと1人だ。これから死ぬまでな」
「あらいやだ、そんな事わからないわよ、軍曹は稽古には厳しかったけど、ファンは多かったんだから」
「はは、バカ言うな」
アヤメと鬼塚は2人で電話越しに笑ったが、お互い顔は笑ってはいなかった。
暗い稽古場の中で鬼塚は1人、考えていた。
何気なしに話題に出した「アイツ」の話題。
【夏の雪】で、アヤメと同時期に劇団に所属していた男———田所耕造———かつてはアヤメと同期でもあり、恋人同士でもあり、そして…犯罪の相棒。
アヤメと耕造のペアは劇団でも素晴らしく、この2人が組めばほぼヒット間違いなしであった。
2人を失いたくなかった鬼塚は、2人が罪を犯している事を知りながらも今まで黙っていた。
刑事が何度も劇団に聞き込みに来たこともあるが、すっとぼけていた。
幸い、演技力だけは、並大抵の役者より上なので刑事も上手く騙せたようだ。
だが…鬼塚は30年以上、2人の犯罪の証拠をずっと隠し続けていた。
稽古場の奥にある衣装部屋。
六畳ほどの衣装部屋には所狭しと色んな衣装が並べられている。
ありとあらゆる衣装は、どれも鬼塚のポケットマネーで購入したり、オーダーメイドで作ったものだ。
衣装をかき分け、積み重なった年季の入った段ボールの一番下。
鬼塚もここ20年以上触っていない。
ひとつひとつ段ボールを下ろし、一番下の段ボールの中に入った衣装のさらに一番下になった一枚のワンピース。
どこにでもありそうなシンプルな赤いワンピース。量販店などに大量に売っていそうなありふれたデザインだ。
3つあるはずだった前の飾りボタンがひとつ、取れている。
実はこのボタンのあしらわれたワンピースはオーダーメイドのスワロフスキーでできている世界に一枚しかない特別なものだった。
鬼塚もかつて愛した女がいて、量販店のワンピースの飾りボタンをこのスワロフスキーに付け替えたものをプレゼントとして贈ったが———
どこにでもありそうなワンピースを彼女が気に入らなくて、突き返されたのである。
鬼塚は、これを劇団の衣装用におろし、スワロフスキーのボタンもそのままにしておいたのだが…
これが、のちのち面倒な事になるとは思ってもいなかった。
鬼塚は、取れたボタンのあとのほころびを見ながら決心した。
ここまでアイツらの犯罪を黙っててやったんだ…
少しくらい、おこぼれをもらったってバチはあたらないんじゃないか?
ここいらでちょっと、本当の鬼軍曹になってやるか…
鬼塚の中で、今まで抱いた事のないドス黒い感情が生まれ始めていた———
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます