四話 伏見家(一)

 すっかり日が落ち、六連の輝きが上る頃。

大通りから少し脇に逸れた通りに、馬の足音と車輪の揺れる音が響いた。

しんと静まり返った通りにじわりと現れたその音は、馬の嘶きと共にとある屋敷の--伏見邸の前でゆっくりと停まった。


「暗いですので足元お気をつけて」

「ありがとうございます」


御者に差し出された手を借り、馬車から軽く飛び降りた灯万里は一礼する。

そのまま急ぐように屋敷へと足を向けると、見送る御者に再び頭を下げ、門の扉を開いた。


あの後和泉子とだいぶ話し込んでしまい、帰宅が遅くなってしまった。

最初、自分で歩いて帰ると主張していた。しかし絶対に馬車で帰らせると譲らない和泉子との押し問答の結果、西園寺家の馬車に送ってもらうことになったのだが、結果的に助かった。

ガスが普及して以降、街にはガス灯が設置されるようになったのだが、まだ大通りなどの人通りの多い場所にしか設置されていない。

伏見邸は少し外れた場所にある。そのため、帰路の途中から頼りにするのは月明かりだけになってしまうのだ。


(ついこの間まで日が長かったのに)


移り行く季節を感じながら、駆け足で手入れされた日本庭園を過ぎると、ぼんやりと玄関の明かりが見えてきた。

西園寺家とは違い昔ながらの日本家屋からは、灯りが溢れ、空腹を刺激するような匂いが漂っている。

空は暗くなってしまったが、まだ夕食の時刻は過ぎていないはずだ。


(夕食の時間には戻らないと、お兄様がうるさいのよね)


兄は決して大声で怒鳴りはしない。

しかしその一見優しそうな微笑みで、ねちねちと長時間お説教を食らってしまうのだ。この空腹時に説教を聞きながらの食事はごめんだ、それだけは避けたい。


「ただいま戻りました」


そっと玄関の引き戸を開けたのだが、反動で屋敷の奥でちりんちりん、と来訪者を告げる鈴が鳴る。暫くすると、ぱたぱたと奥から女給が走ってきた。


「お帰りなさいませお嬢様」

「ただいま松葉さん」


松葉と呼ばれた少し年上の女給は、履物を脱ぐ灯万里の横に置かれた鞄を抱える。


「遅かったですね」

「ごめんなさい、和泉子様とお話が盛り上がっちゃって」


ばつが悪そうに答えると、松葉はそんな事だろうと思いましたわ、と微笑んだ。


「お夕飯のご用意ができていますよ」


その言葉にほっと胸を撫でおろす。


「よかった、間に合ったのね」

「ええ、なんとか」


でもぎりぎりですよと苦笑いする松葉と共に、居間へ向かう。

すると廊下の向こうから、見慣れた顔がやってくるのが見えた。


「おかえり、灯万里」


恐らく帰宅時の鈴の音が聞こえたのだろう。

いつもの英国式の上着を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に身を包んだ、平凡な自分の顔と全く似ていない兄がそこに居た。


「ただいま戻りましたお兄様」


何となく今会いたくなかったのだが。

そんな事を思いながら、紬に軽く一礼する。


「遅かったね。今日も西園寺のご令嬢のところかい?」

「あ、はい。先日和泉子様がご婚約されたので…」

「ああ。そうだったね」


行こうか、と促す紬に続き、長い廊下を進む。

いつの間にか松葉は姿を消していた。


「ずっと灯万里を待ってたから、僕もまだ夕食を食べていないんだ」


先ほどから何となく棘のある言い方である。


「ごめんなさい…」


これはもしや説教を聞きながらの夕食だろうが。

いやしかし、ぎりぎり時間には間に合っている。言いつけは守っているのだし、小言を言われる筋合いはない。


どんよりとした表情で居間へ入ると、丁度女給達が食卓に食事を並べているところだった。そしてその中には松葉の姿もあった。


「さあさあお座りくださいな」


てきぱきと女給達に配膳の指示を出す姿は、さすが伏見家に支えて長いだけある。しかしちらりと灯万里の表現を見た瞬間、松葉は小さくため息をつきながら立ち上がった。


「お坊ちゃま。あまりお嬢様をいじめないであげてくださいね」

「いじめるなんて聞こえが悪いなあ。僕は灯万里に、」

「はいはい。早く召し上がらないと冷めてしまいますよ


紬の言葉を遮ると、松葉はそう言って湯気の立ち上る茶碗を紬の前に置いた。この家でこうも紬に反論できるのは、両親を除くと松葉ぐらいではないだろうか。

恐らく帰宅がぎりぎりになった事に小言を言うな、ということだろう。


(さすが松葉さん)


灯万里は心の中で松葉に手を合わせた。

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