第49話

 その日の学校では、朝、全校生徒が体育館に集められて、校長先生から、一人の生徒の命が奪われたという痛ましい知らせと、人間の【命の価値】についての御高説ごこうせつを賜ったものの、学生達の騒つきは午前中の内に収まって、その後は、いつもと代わり映えのしない、退屈な時間が流れるばかりであった。


 人間一人の命が無くなったというのに、まるで学校に野良犬が迷い込んだ来た程度の騒ぎにしかならない。


 所詮他人の命。


 自分の命の事となると、目の色を変えて必死に守ろうと足掻くのに、他人の命が無くなっても、どうでも良いのだ。


 所詮、その死を悲しむ自分を演出する為のファッション程度にしか捉えていないのだ。


 まるで、坂上さんの死など無かったかの様に。


 坂上さんという人間など、始めからこの世界に存在していなかったとでもいう様に。


 世界は前へ進み続ける。


 よくよく考えてみれば、それもそのはず、至極当然しごくとうぜんの事なのだ。


 今この教室で、近い将来には魂ごと失われる知識を詰め込むという、滑稽な作業に励んでいる学生達も、たった数瞬だけ早くこの世界に生まれたというだけで、偉そうに物を教えている教師達も、皆、百年後にはこの地上から消えているのだから。


 儚く脆い、人間の命。


 余命3ヶ月の人を見て可哀想だなどと要らぬ同情をする人がいるけれど、あなただって、どれほど多く見積もった所で、余命70〜80年ですよ。お気の毒に。可哀想ですね。


 『人の一生なんてあっという間なんだな、思っていたよりも、ずっと』

 

 なんとなく僕の口を突いて出た言葉を捕まえて、


 『どうしちゃったの安藤君?珍しく世界を憂いてる様な顔して。遅めの厨二病が発症して、世界を憂う悲劇のヒロインでも気取っちゃってるのかしら?』


 麻生来未あそうくるみが、悪戯いたずらっぽい笑顔を僕に向けてくる。


 『尊敬する大切な先輩を失ったんだから、そりゃあ急に世界を憂い出したりもするさ。坂上さんの事は、心から尊敬してたんだ』


 心にも無い言葉が、口を突いて出て来る。


 僕は何の為に、こんな意味の無い嘘を吐き出しているのであろうか?


 何を誤魔化したいのだろうか?


 誰に言い訳をしているのだろうか?


 そんなの、最初から分かりきっている。


 僕は僕に弁解したかった。僕が僕を愛する為に、僕がこの世界を愛する為に。


 その為には、どうしたって【心】が必要なのだから。


 僕は先輩を尊敬出来なければならないし、人を愛せなければならない。


 『そうだったね。坂上さんだったっけ?私は面識が無いからよく知らないけれど、プロになれるくらいの逸材だったんでしょう?ただ死んでしまっただけでも悲しいけれど、本当に残念だよね』


 窓の外に目をやる麻生に、思わず、【全然残念なんかじゃないよ】という言葉を掛けそうになったけれど、僕は、どうにかそれを飲み込んだ。


 この世界はあまりにもイージー過ぎて飽きてしまったのだと、あの人は言っていた。


 だから、死んでハードモードに生まれ変わりたいのだと、そう言った。

 

 あの人は、まるでゲームのデータを消却するくらいの軽い気持ちで、自分の命を終わらせてしまったのだ。


 人生に四苦八苦する弱い者達がうらやましいとあの人は言った。


 四苦八苦の末に、その余りの苦しさに耐えかねて死を選ぶしかなくなった弱い者達は、その状況を恵まれているとはつゆとも思っていないだろう。


 強者は弱者を羨み、弱者は強者を羨む。


 シンプルに勝ち続ければ幸せを掴めるという単純な世界なら良かったのに。


 この世界では、勝ち続けて、頂点に立ったその直後に、果てしのない虚無に吸い込まれて、自ら命を絶つ者もいるのだ。


 終わりの無い【ないものねだり】を繰り返すこの人生の中で、果たして、人は幸せになれるのであろうか?


 『皆、自分には明日があるって信じて疑わないけどさ、確約された明日なんて、誰にもない。人の命の決定権を握っている、人智を超えた何かは、人間の都合なんてお構い無しに、情け容赦なく命を刈り取っていく』


 坂上さんは、自らの意思で死を選んだ様に見えるけれど、本人すらも、命が終わるその瞬間まで、そうと信じて疑わなかったであろうけれど。


 それでもやっぱり、坂上さんの命を刈り取ったのは、人智を超えた何かなのだろうと、僕は思う。


 運命だとか、神様だとか、世界だとか、そういう圧倒的な何かが、あの人を死の世界へと誘ったのである。


 『だから僕らは、命の全部を総動員して、今に生きるしかないんだよ。過去でも未来でもなくてさ、しっかり今を見ていないと、きっと後悔する事になる』


 『出た。ポエマー安藤。やっぱり君は、重度の厨二病をわずらっちゃってるみたいだね。世界、憂いまくりじゃない。でも、そのビンビンに研ぎ澄まされた感性は悪くないから、君は、ずっと厨二病をこじらせていたら良いと思うよ。愛してる』


 どさくさに紛れて、何か言われた様な気もしないでも無いけれど、僕はあまり細かい事は気にしないタイプの人間なので、気にせず、それを無かった事にしたのであった。


 『ねえ、安藤君。猫殺しの事なんだけど』


 『あぁ、その事なら、もう大丈夫だよ』


 『大丈夫?』


 麻生が怪訝けげんな表情で僕を見る。


 『もう猫殺しは起こらないんだ』


 『どうして?』


 『とにかく、もう大丈夫だから、安心していいよ』


 もう猫殺しは起こらない。


 厳密に言えば、この世界のどこかでは、今も猫殺しは起きているのかもしれないけど。


 僕らの街で起こった、僕らが止めようとしていた猫殺しは、もう起こらない。


 それは断言出来る。


 なんたって、犯人が死んでしまったのだから。


 『う〜ん。なんだか腑に落ちないけど、でも君がそう言うのなら、もう心配するのはやめにするよ』


 いつも通りの、太陽の様に眩しい笑顔を僕に向けた麻生は、


 『だから、君もほらっ』


 僕の口の両端を、人差し指で無理矢理に押し上げる。


 『笑って』


 『今はそんな気分じゃないんだけど』


 『分かってないねぇ、君は。嬉しいから笑うんじゃないんだよ。笑うから楽しくなったり、嬉しくなったりして、気づいたら幸せになってるんだよ。だからさ、気分が乗らなくっても、とにかく笑うの。そうすれば、人生は今よりもきっと良くなるから。だから、もうそんな顔しちゃダメだよ』


 麻生は、僕の口を押し上げる指に力を込める。


 『そんな顔って?』


 『般若みたいな顔。修羅の顔。そんな顔、ナチュラルボーンのアホの子の君には、全然似合わないんだから』


 僕は、そんなに酷い顔をしていたのか?


 なぜだろう?


 全然平気なつもりでいたけれど。


 坂上さんの死など、僕に何の影響も及ぼさないと思っていたけれど。


 彼の死は、僕の心に何らかの波紋を起こしたのであろうか?


 それは、悲しみや苦しみ喪失感といったたぐいの感情ではない。


 彼の死に感化を受けた僕の心は、今、何を思うのだろう?


 自分の心が、自分でも分からない。


 『わかったよ。これからは、出来るだけ笑顔でいられる様に心掛ける』


 『わかったならよろしい』

 

 偉い偉いと、目を細めながら、麻生は僕の頭を優しくなでる。


 『何かあるなら遠慮せずに私に言うのよ。どんなに醜く歪んだ思想だって、それが君の心なら、私は全部受け止めるから』


 僕を見る彼女の目は、いつだって溢れんばかりの愛で満ちている。


 彼女が温かな心をくれるから、僕は冷え切ったこの世界の上に、今日もなんとか立っていられるのだ。


 『どうして来未はいつも僕の味方でいてくれるの?』


 『君が笑って生きていられる事が、私の人生の幸せだから』


 『そっか、なんか、うん。嬉しいな』


 理由なんか何も無くても、無条件で味方でいてくれる誰かがいる。


 そんな誰かが、この世界のに一人でもいるのなら、それは、他の何にも変える事の出来ない、本当の幸せなのだと思う。


 僕は、幸せなのだ。


 だって、その一人が麻生来未なのだから。


 僕の言葉を聞いた麻生は、目を大きく見開いて、唇を小刻みに振るわせながら、


 『私は何があっても君の味方だよ。例え、君が罪の無い子供を理不尽に虐殺しても、世界中の人を悲しませる様なテロ行為を行っても、私はずっと君の側にいるし、世界中を敵に回したって、私は君の味方だよ』


 『それはまた、とんでもない依枯贔屓えこひいきだね』


 彼女の重た過ぎる愛が、どうしようもなく嬉しかった。


 出来れば笑顔で生きていたいと、心の底からそう思った。


 本当に、嘘じゃ無い。


 『だからさ、ずっと笑って生きていられる様に、苦しかったら私に言うのよ。小さな痛みも積み重なれば、消す事の出来ない大きな痛みに成長して、あっという間に人間の命なんて飲み込んでしまうんだから』


 あぁ、本当に僕は幸せ者だ。


 それなのに、僕のはどうして……。


 『わかったよ。苦しくなったら、すぐに君に相談する。それが君の幸せなら、僕は、いつだって笑顔でいられる男になるよ』


 『うん。わかったならよろしい』


 僕の頭を優しく撫でる麻生の指先から、限りの無い愛が溢れ出す。


 優しく、温かなその愛が、僕の心を包みこんだ。


 その温かな彼女の愛を、しっかりと受け取る事の出来ない僕の歪んだ心根が、憎くて憎くて堪らない。


 彼女を幸せにしたいのに、僕にはそれが出来そうにない。


 彼女の望むものは、僕がそれを絶対に容認出来ないものであったから。


 彼女を幸せにしたいという思いに嘘偽りはないけれど、僕は、この世界ので心の底から笑って生きる事など決して出来ないのである。


 僕が選ぶ未来は、きっと彼女を悲しませる事になるだろう。


 それでも、いつか、彼女が心から幸せを感じられる日が来る事を心から願う。


 例え、彼女の幸せを、この目で見る事が叶わなかったとしても。


 例え、彼女の横に立っているのが、僕ではなかったとしても。


 麻生来未が幸せで在れる世界が訪れる事を僕は心の底から願っている。



 


 

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