第44話

 『ちょっと、本当に気持ち悪いから、もうガン見するのやめて。殴るわよ』


 麻生の言葉で、僕は深い思考の世界から引き上げられた。


 『ずっとここに居られたらいいのにね』

 『えっ?』

 『ずっと夢の中で、幸せな笑顔に囲まれてさ、苦しみとか悲しみとか、そういう物が入り込む余地が無いくらいに楽しい毎日を送って、笑いながら死ねたらいいのに』


 麻生は、父親にストロベリー味のチュロスをねだる女の子の姿に目を細める。


 『ここにはさ、苦しそうな顔をしている人なんて誰もいないでしょう?普段は、自分の居場所を守る為に、張り詰めて、研ぎ澄まされた心も、ここに来れば、ぐにゃぐにゃ柔らかくなる。夢の中に閉じこもるのは、そんなに悪い事なのかな?死んでしまいたいと願ってしまう程に、心をすり減らすくらいなら、そんな世界は捨ててしまって、夢の中に逃げ込めば良いのに』


 ストロベリー味のチュロスを買い与えられた女の子は、半分あげると言って、ちぎったチュロスを父親に手渡す。


 それを一口で平らげた父親は、手櫛で髪をとかす様な優しく慈しむ手つきで、女の子の頭を撫でる。


 『人生なんて、あっという間に終わっちゃうんだからさ、苦しいだけの虚しい競争に時間を費やすなんて、勿体な過ぎるよ。こんなにも簡単に幸せになれるんだから、皆、ずっと幸せでいれば良いのよ』


 麻生来未の吐き出す言葉の、その一つ一つが、僕の心の深い所に、ぐさりぐさりと突き刺さる。


 そうだ。


 幸せなだけの人生の何が悪い?


 敗者がいなければ成立しない、勝者の優越感を満たす為の競争社会は、本当に世界の正しい形なのであろうか?


 苦しみや悲しみの無い世界をつくるのは、そんなに難しい事なのだろうか?


 人間が四苦八苦しくはっくを味わって死ぬ為だけに生まれてくる、そんな憐れな存在なのだとしたら、僕達は、一体何の為に戦っているのだろう?


 生き残る事に必死で、振り落とされない様に一所懸命に食らいついて、気付いた時には手の中に残っているのは絶望だけ。


 あまりにも残酷過ぎる現実に、僕の足はすくんでしまう。


 どうせ無意味に朽ちるだけの命なら。

 僕は、この命の全部を使って、苦しみや悲しみの無い世界をつくりたい。


 どうやったら良いのかなんて分からないけれども、でも、どうしようもない程に、強く僕の心がそれを求めているから。


 出来れば血反吐なんか吐きたくは無い。


 だけれど、それで苦しみや悲しみをこの世界から消せるなら、何ℓだって血反吐を吐いてやる。


 夢を見て、夢に生き、夢に死ぬ。


 今日、この夢の国が、僕に人生の羅針盤を授けてくれた。


 『僕は競争なんて嫌いだし、敗者を足蹴にしてまで勝者になりたいとは思わない。でももしこの世界の一番上まで上り詰める事が出来たとして、そこに辿り着けば自分の思うままに世界をつくり変えられるというのなら、僕は、この命の全部を使って、そこに辿り着こうと思う』


 いつかきっと、どこかの誰かがやってくれるだろうと、他人任せにしていたら、平和も幸せな世界も永遠に手に入らないから。


 誰かがやらねばならぬのなら、僕がやる。

 そう決めたんだ。


 『曇り空も雨も無い。青空だけを見ていられる世界をつくる事が出来たなら、僕の人生はずっと地獄でも構わない。もがき苦しんで足掻いて足掻いて、足掻き続けて、絶対にそこに辿り着いてみせるから、だから……』


 なぜだか分からない。


 根拠なんて何もない。


 そこに辿り着く方法なんて、全く思い当たらないのに、でも、なぜだろう?僕の目には確かに、抜ける様な青一色の美しい空が見えたのだ。


 『だから…何?』


 麻生のくりっとした大きな目に映る僕は、まるで何かに怯える小動物の様で、だけれどその瞳には、強い意志の炎が燃えていた。


 『いやっ、何でもない』

 『何よ?言いなさいよ、気になるじゃないの』

 『本当に、何でもないんだ』


 いつか、あの抜ける様な青空を君に見せられる日が来たら。


 この世界に押し潰されて、全てを諦めてしまった人達に、手を差し伸べられる日が来たら。


 僕の胸の中に溢れるこの想いを、君に伝えようと思う。


 『そっか。じゃあ気長に待つ事にするよ』

 『だから、勝手に人の心の声を聞くなよ。怖いから』

 『えっ?何の事?』

 

 空惚そらとぼけた様な顔をして空を見上げる麻生は、


 『不思議だね。空一面雲で覆われた曇天どんてんなのに、君の隣で見上げたら、こんなにも美しく光輝く』


 と言って、優しい微笑を浮かべると、眩しそうに目を細めた。


 分厚い雲に覆い尽くされた今日の空は、今まで見たどんな空よりも美しく、光輝いていたのであった。

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