第38話

 爽やかな日の光に照らされて、休日の朝の街を黙々と歩いている。


 玄関でのやり取りを最後に、麻生との会話は途切れてしまっているのだけれど、不思議と気まずさは全く感じない。


 何とかして間を埋めなければ、という風に頑張って会話を続けなくても、ただ隣にいるだけで心地よいと感じられる人。


 会話の無い無音の時間までも心地良いと感じられる。


 この短い人生の時間の中で、そんな人に出会えるなんて、本当に奇跡だよなぁ、なんて、そんなラブソングの歌詞みたいな事を感じてしまうのは、きっと麻生来未あそうくるみのせいだ。


 ありがとう。


 こんな言葉を口に出そうもんなら、麻生はきっと調子に乗って、僕にマウントを取ってくるだろうから、【ありがとう】は僕の心の奥の大切な所に、そっとしまっておく事にした。


 曲がり角を曲がった所で、麻生が僕の手を握ってきた。


 彼女の手は、相変わらず氷の様に冷たくて、心なしか小刻みに震えている。


 僕は、言葉をかける代わりに、少しだけ、彼女の手を握る僕の左手に力を込めた。


 いつもと同じ街並みなのに、日曜日の朝だというだけで、全く違う世界の様に見えるのはなぜなのだろう?


 遠い異国の知らない街へと旅してきた様で、なんだかとっても新鮮な気持ちだ。


 ほんの少しだけ、今までの僕とは違う視点を持つだけで、世界なんて簡単に変える事が出来るのだ。


 だとしたら、やっぱり僕は、皆んなが笑っていられる世界を願わずにはいられない。


 いつの日か訪れるその世界で、僕の隣に笑顔の麻生がいてくれたならそれだけで良い。


 そんな日が訪れるなら、こんな世界に生まれて来たのも、そう悪くはないなと思う事が出来る。


 出来る事なら、この世界に生まれて来た事を間違いだなんて思いたくはないから、僕は未来に夢を見る。


 僕は今、この人生が嫌で嫌で堪らないけれど、いつかはこの人生を、心から愛したいと願っているのだ。


 そんな事を考えているうちに、僕達は、丘の上の公園に辿り着いていた。


 ここから見下ろす街の風景は、相変わらずの美しさで、僕の心の奥底から何とも形容し難い感情が込み上げてくる。


 『それで、日曜日の朝っぱらにこんな場所に連れてきて、何をするつもりなんだよ?』

 『だから、猫を守るの』

 『そういえば、【猫の命守り隊】の初任務とか言ってたね』

 『私達は【猫の命守り隊】として猫の命を守るのよ。私達が足踏みしている間に、また一つ猫の命が奪われてしまったのだから』

 『昨日猫殺しがあったのを知ってるの?』

 

 僕は、昨日目にした猫の死骸しがいを思い出す。


 何者かによって身勝手に命を奪われた上に、腸を引っ張り出され、おもちゃの様にいじくられた憐れなむくろ


 猫の腸を使って、【猫は私の友達です】という文字を作った化物は、今、どこで、何を思っているのだろうか?


 『昨日?昨日も猫が殺されていたの?』

 『死体の隣には【猫は私の友達です】っていう、猫の腸で作られた文字があったよ』

 『私は今朝、ジョギングしている時に、猫の死体を見つけたの。そこには引きり出された腸で【私は猫を愛しています】っていう文字が作られていたから、君が見た猫とは違う猫って事ね』


こんなにも短い間隔で、2匹の猫が殺された。


 犯人は、よっぽど猫に恨みのある人間なのであろうか?


 『でも、何で猫なんだろうね?』

 麻生が、くりっとした目を僕に向ける。


 『さぁ、なんでなんだろうな?』

 『それに、何で私達は猫の死を見ると、こんなにも悲しい気持ちになるんだろうね?』


 麻生は、僕に向けていた目を眼下に広がる街へと移した。


 『昨日、家にゴキブリが出たからさ、スリッパでペシャンコに潰して殺したの。ただ気持ち悪いからって理由で。その潰れた死体から腸が飛び出してたんだけどさ、それを見て私が感じたのは【なんか、おナスみたい】って事だけ。気持ち悪くって、おナスが食べられなくなっただけで、可愛そうだなんて思わなかったの』


 『たしかに、ゴキブリの死骸を見て悲しみを覚えた事は僕もない。ただ気持ちが悪いと思うだけだ。でもさ、猫の死だって、誰もがいたむものじゃないだろ?世の中には虐殺された猫の無残な姿を目にしても、何も感じない人間だっているし、少なくとも犯人は性的興奮を感じている可能性すらある。それに、人間の死すら悲しいと思わない人だっているだろ?たぶんさ……』


 『たぶん、何?』


 『大切だからじゃないかな?猫の命が、来未にとっては大切なもので、ゴキブリの命はそうじゃない。その君の価値観が、その心が、猫の死を悼んでいるんだと思う。たぶんだけどね』


 『要するに、依枯贔屓えこひいきって事?』

 『まぁ、言葉を選ばずに言うのであれば、そうなるね』

 『じゃあ、私の価値観で、エゴで、猫の命を助けたいって思う事は、身勝手な事なの?』

 街を見下ろす麻生の目に、不安の色が過ぎる。


 『さぁ?僕には分からないよ。でも』

 『でも?』

 『誰だって、自分の身勝手なエゴの為にしか生きられないだろ?夢を追いかけるだとか、人を幸せにしたいだとか、そういう綺麗な言葉で飾り立てるから分かりにくいってだけで、結局、全て人間は自分のエゴを押し通す為に生きてるんだから』


 『君、高校生なんだからさ、高校生らしくピュアな心で夢を追いかけなさいよ。エゴを押し通す為に生きてるだなんて、たとえそれが真実だとしても、悲し過ぎるじゃない』


 『まぁ、僕の考え方は一旦置いておくとして、結局、その人間の押し通したエゴがより多くの人に共感されて、素晴らしいと賞賛されれば、美しい物語になるし、身勝手で独りよがりなものだと判断されれば、誹謗中傷される。ただそれだけの事だろう?』

 見上げた空の抜ける様な青が、僕の心を優しく包み込む。


 『だから、来未は来未の心が思うままに、我儘わがままに生きれば良い。僕は、君の選ぶ道だったら、どこまでだって着いていくから。それが僕の押し通したいエゴなんだから。だから、君には迷わず信じた道を歩んでほしいと思う。いつまでも、その真っ直ぐな心のままで』


 ずっと隣を歩いていたいと思える誰かがいる幸せを、その世界の色彩の美しさを、皆んなに伝えてあげたいなぁ、なんて、気持ちの悪い事を考えてしまうのは、きっと僕が思春期をこじらせているからなのであろう。


 生まれてきて良かったと、初めて心の底から思った。


 そんか、素敵な日曜日の朝なのでした。




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