第36話

 休日の朝。


 いつもならば、部活の練習のある日曜日なのだけれど、今日は部活は休みで、人と会う約束もない。


 罪悪感ざいあくかんさいなまれながら、惰眠だみん謳歌おうかする日曜日も悪く無いな。と思う心に反して僕の体は、規則正しく目覚めてしまうのであった。


 時計に目をやると、時刻は5時30分。


 予定も無いのに、こんな朝早い時間に目覚めてしまう自分に、呆れて半分、感心半分というていで、優雅にホットコーヒーをあおっていると、携帯電話に着信が入った。


 朝の5時30分に電話をかけてくるなんて、よっぽど常識を知らない人間か、もしくは、よっぽどの緊急事態であるのか。


 携帯電話の画面に目をやると、そこには、よっぽど常識を知らない女の子の名前が表示されていた。


 【麻生来未】という、休日には目にしたく無い部門ランキング1位の四文字に、僕は深い溜息をつく。


 まだ眠っている事にして、出ないでおこうかなぁ、と画面を見ながら考えていると、


 『はやく電話に出なさいよ。起きてるんでしょ?』

 ピンポン、ピンポンと激しく連打される玄関チャイムの音と共に、麻生の怒声どせいが響き渡る。


 休日の早朝。


 閑静かんせいな住宅街で、玄関チャイムを連打しながらわめき散らす15才の女の子。


 一体どの様な教育を施されたら、この様なモンスターが出来上がるのであろうか?


 日本の義務教育は、そろそろ、そのシステムを抜本的ばっぽんてきに考え直さなければならない段階に来ているのかもしれない。


 幸い、父さんは出張中であるし、母さんはノイズキャンセリングイヤホンで、ヒーリング音楽を聴きながら眠っているので、起きる心配は無いのだけれど、これ以上、近隣の住民の方々に御迷惑をお掛けする訳にはいかないので、パジャマの上にパーカーを羽織った僕は、重い足取りで玄関に向かう。


 なおも玄関チャイムを物凄い勢いで連打している麻生に、


 『今開けるから、チャイム鳴らすのやめてくれよ』

 と言って、玄関ドアを開けてやると、そこには、血走ったバッキバキの目でこちらをにらみつける麻生が立っていた。


 怖い、怖すぎる。


 あまりの恐怖に、思わず玄関ドアを閉めてしまった。


 『なんで閉めるのよ。開けないのなら、この玄関ブチ破るわよ』


 開けても地獄、開けなくても地獄。

 数秒考えた末に、僕は腹を決めて、玄関ドアを開ける事にした。


 さようなら、僕の休日。


 『おはよう、安藤くん。出掛けるから準備して、あと3分で』

 麻生は、目はバキバキのままで、口元に笑みを浮かべている。


 僕の目に映る麻生の姿は、まごう事なき猟奇犯罪者のそれであった。


 『はっ?出掛けるって、どこに?』

 『あと2分50秒』


 もし、タイムリミットを過ぎたらどうなるのか?


 彼女の目を見れば、答えは一目瞭然いちもくりょうぜんである。


 僕は、まだこの世界で生きていたいから、全速力で自室へ向かうと、早着替えをする舞台俳優の様な目にも留まらぬ早業で、着替えを済ませた。


 歯磨きガムを口に放り込んでモグモグしながら、心の中で残り時間をカウントする。


 まだ2分5秒もある、楽勝だ。

 玄関へ駆け戻ろうとするが、財布が見つからない。


 なぜだ?


 いつもの場所に、なぜ財布がないのだ?

 おいおい、うそだろう?勘弁してくれよ。


 どこに出掛けるのかは分からないけれど、流石に1円も持たずに出て行ったら、タイムリミットに間に合った所で、僕の命はあっという間に取られてしまうだろう。


 あぁ、つい数分前まで優雅にコーヒーを呷っていたというのに。


 まるで、激戦地の最前線で戦う兵士の様なこの状況は何なのだ?


 今日って日曜日だよね?

 日曜日って、家でゆっくりゴロゴロしていてもいい日だよね?


 さっきまでの休日の心安らかなひと時が、まるで、遥か遠い昔々の出来事であるかのように感じられる。


 やばい、本当にやばい。


 『あと30秒』

 玄関の方から響く、まるで死刑執行人ででもあるかの様に感情の込もらない麻生来未の声が、僕の焦りを、何倍にも増幅させる。


 あぁ、もうこれ、人生詰んじゃったな。


 僕が命を諦めかけたその瞬間とき、ズボンの左のポケットが、何やら膨らんでいる事に気がついた。


 ポケットに手を突っ込むと、そこに財布があった。


 お気に入りのズボンのポケットに、財布を入れっぱなしにてしいたのだ。


 何はともあれ、財布はあったのだから、後はタイムリミットにさえ間に合えば、僕はまだ人生を続ける事が出来るのだ。


 僕は、甲子園出場を賭けた大一番で、ホームスチールを仕掛ける様な心持ちで、玄関に向かってがむしゃらに駆け抜けた。

 

 

 

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