第31話

 『なぁ、安藤。お前はさ、なんで野球やってるんだ?』

 『なんで、と言いますと?』

 なんでと言われても、好きだからとしか答えられない。

 なんで好きなのかと聞かれたら、なんとなくとしか答えられない。


 あれっ?


 改めて考えてみると、僕はなんで野球をやっているのだろうか?

 なんだか、自分でも良く分からなくなってしまった。


 『いや、お前は才能に恵まれてて、練習にも真摯しんしに取り組んでるけどさ、何がなんでも天辺を取ってやろう、っていう気概きがいが感じられないから、何を目指して野球やってるのかな?と思ったんだ』


 『うちの部活で天辺目指してるのなんて、坂上さんと、あとは黒田くらいで、それ以外はただ漫然まんぜんと野球というスポーツをたしなんでるだけでしょう』


『そりゃあ、才能の無い有象無象うぞうむぞう共は目的意識なんか持つはずも無いだろうけど、お前は才能に恵まれてるだろ?まぁ俺程では無いにしても、所謂いわゆる10年に1度の逸材ってヤツだろう?お前は。普通それだけの才能があったら、目指しちゃうだろ?甲子園』


 確かに、僕は他人を蹴落としてまでエースになりたいとは思わないし、数万人もの涙を流す高校球児達を踏みつけにしてまで、全国制覇の歓喜に酔いしれたいとは思わない。


 でも、だけど、


 『まぁ、確かに、僕には見かけ上の【熱】みたいなものが無いのかもしれませんが、でも、こう見えて僕、目指しちゃってるんですよ。甲子園』

 僕の言葉に、坂上さんが目を丸くする。


 『そうなのか?とてもそんな風には見えないけどな。でもまぁ、良かったな。目指してようが、目指して無かろうが、俺と同じチームになった時点で、お前の甲子園出場は決まったんだから』

 ハッハッハッ!と、豪傑笑ごうけつわらいをする坂上さんは、星が瞬き始めた空を見上げて伸びをした。


 『まぁ、そうですね。よかったです』

 1+1=2である様に、坂上さんのいるチームは甲子園に行く。


 人間がいつか死ぬのと同じくらいに当たり前の、この世界の不変の真理である。


 『俺はさ、野球だけはいつまでも好きでいたいんだ。他のものは、もうダメみたいだからさ。だからせめて、野球だけは好きでいたいんだ』

 坂上さんは、空に瞬く星々に目を細める。


 『野球を好きでいる為に、強い奴らと命の全部を懸けて戦っていたい。そんな戦いの最中に、満身創痍まんしんそういで最後の一球を放って、勝利を手にしたその瞬間に死を迎える事が出来たなら、きっと最高なんだろうなって思うんだ』

 坂上さんは、星に向かって伸ばした掌を強く握る。


 『だからさ、俺は、いつかそんな日が来るのを夢みて、今日も今日の分の命を全部野球に捧げたし、明日も明日の分の命を全部野球に捧げるんだ』


 ペース配分なんか考えずに、どんな瞬間にも命の全部を捧げて生きる。


 弱肉強食の世界で生きる野生動物達には当たり前の事だけれど、食物連鎖の輪から外れて命をおびやかされる機会が極端に減った人間にとっては、忘失ぼうしつして久しい生き方である。


 どこかの歴史学者が、人間の事を【ホモ・ルーデンス=遊ぶ人】と定義したそうであるが、坂上さんは、遊び心をどこかに置き忘れてしまったとでもいう様に、日々全力で命をすり減らしながら生きている。


 現状でも、誰も辿り着く事が出来ない程の高みにいるというのに、坂上さんは、決して自分に満足する事なく、粛々しゅくしゅくと自分を高め続けているのだ。


 この人が到達するであろう場所から眺める景色は、どんなにか美しい事であろう。


 そんな景色を目に焼き付けて、この世界を旅立つ事が出来たのならば、それ以上の理想的な最後は望めないという程に、最高の死に方に違いないであろうな。と僕は思う。


 坂上さんに出会わなければ、僕はきっと、そんな生き方がある事も、そんな死に方がある事も知らずに、【遊ぶ人】として、無為に人生を浪費して、後悔と絶望の中で最後を迎えていたであろう。


 僕は人に恵まれているなぁ。と、つくづく思う。


 命を懸けられる何かがある事が、どんなに素晴らしい事であるのかという事を、人生のこんなにも早い段階で、知る事が出来たのだから。


 

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