第29話

 僕は、強張った体をほぐす為に、一つ深呼吸をする。


 ガチガチに固まった心を和らげる為に見上げた空は、雲一つ無い快晴であった。


 【最高】の力を発揮はっきする為には、心も体も僕の真ん中に置かなければならない。


 自分であって、自分ではない様な。


 幽体離脱をして、上空から見下ろした自分を操作する様な感覚で、あらゆる我執がしゅうを払い落とさなければならない。


 はやるな。


 見栄を張ろうとするな。


 心を真ん中に置いて、等身大の自分で。


 ただ、今の自分が持てる【最高】を、今、この場所でこの体で出せる全力を、坂上さんにぶつければ良いのだ。


 この感覚に囚われるのは、いつぶりであろうか?


 先程までそこにあったはずの世界が姿を消して、僕は、どこまでも無限に広がる闇の中に、ただ一人浮かんでいる。


 とても心地の良い、温かな孤独の世界。

 

 ずっとここにいたいなぁという思いを振り切って、キッと見開いた僕の目に映るのは、ここに投げろと言わんばかりに、闇の中に浮かび上がるグローブだけであった。


 体が自然に、これ以外には辿るべき道は無い程の理想的な、美しい投球フォームを描き出す。


 僕の手から放たれた白球は、瞬く間に坂上さんのグローブへと吸い込まれていった。


 先程までの僕は、いつかきっと、坂上さんを超えたいと思っていた。


 でも、いつかきっとじゃダメなんだ。


 そんな中途半端な決意では、【いつか】なんて永遠にやって来ない。


 叶えたい思いがあるのなら。

 その思いが本物であるのなら。


 いつかきっとじゃなくて、今、ここで、必ずなんだ!


 『わかったよ』

 グローブに収まった白球を憧憬しょうけいの眼差しで見つめながら、坂上さんは、独りごちる様に呟いた。


 いつの間にか、深い闇から引き上げられていた僕の、右の手のグローブに、まるで何事もなかったという様に、坂上さんがボールを投げ返した。


 坂上さんの放ったずしんと重い球は、相変わらず寸分違わぬ正確さで、僕の構えた場所に収まった。


 その後の練習は、特段いつもと変わった所もなく、平穏無事へいおんぶじに終了した。


 制服に着替えて、家路に着こうとする僕の背中に、

 『安藤。たまには一緒に帰らないか?』

 と、帰り支度を終えた坂上さんが声をかけてきた。


 部活帰りに坂上さんが僕に声をかけてくるなんて、未だかつて無い事だ。


 キャッチボールの時の挙動きょどうといい、今日の坂上さんは何やら色々と様子がおかしい。


 女の子の日なのかな?

 男の子だけれど。


 でもまぁ、いつも家路を共にする黒田が、今日は練習が終わるや否や、一目散に家路についてしまったので、丁度良かった。


 黒田は口に出して明言した事は無いけれど、何故だか坂上さんに対して苦手意識を持ってるみたいだからな。


 『そうですね。宜しくお願いします』

 僕と坂上さんは、エナメルバッグを背負うと、心地の良い疲労感に包まれた体で家路に着いた。


 辺りは、真っ黒くしんしんとして、夜の闇に包まれた世界の中を、僕らは確かな足取りで歩み始めた。

 

 

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