第23話

 心の中の変なスイッチを押してしまったらしい僕は、柄にもなく張り切って、朝練で全ての力を出し切ってしまった。


 生まれたての小鹿の様にガクガクする足で何とか自分の席に辿り着いた僕は、糸が切れた様に机にす。


 明日からもこの調子で生きていくとしたら僕の命はあと5年、いや、もって3年だろう。


 でも、とっても苦しいはずなのに、不思議と今の僕が感じているのは、なんとも言えない恍惚感というか、なんか凄く満たされた気分なのである。


 もしかして、僕は根っからのマゾヒストなのであろうか?


 あっ、やばい。


 もぅ目を開けていられないや。


 僕は、体の要求する強烈な睡魔すいまあらがえずに、夢の世界へと旅立った。



 僕は海の中にいる。


 明るく光り輝く桜色の海の中で、海月くらげの様に、行く当てもなく、ただ水中を漂っている。


 とても綺麗で、温かくて、この世界には、僕を傷つけるものなんて何もない。


 これが夢。


 生まれて初めて見る夢が、あまりにも綺麗過ぎるから、思いがけず僕の目から熱いものが溢れ出した。


 ずっとここにいたい。


 いつまでも、いつまでも。


 ただ、ここで、ゆりかごにられる様に、優しい波に揺られながら。


 穏やかな心で、悠久ゆうきゅうの時の流れの中を、ただひたすらに漂っていたい。


 【おーい、おーい】

 

 どこかから聞き覚えのある声がする。

 この声は、誰のものだったであろうか?

 とても、とても大切な人のものだった様な気がする。


 【おーい、おーいってば】


 声がどんどん大きくなるにつれて、桜色の海が、端の方から、どこまでも深い黒に飲み込まれていく。


 美しく温かい桜色の世界が、全て黒に飲み込まれてしまうという、まさにその瞬間とき、僕の耳に、


 【愛してるよ。ダーリン】


 という言葉と共に、甘い息が吹きかけられた。



 『ふぁいっ!』

 涙に濡れた顔で、よだれを垂らしながら、焦点しょうてんの定まらない目で飛び跳ねる様に立ち上がった僕に、クラスメイト達の冷めた目線が集まる。


 あぁ、今ここで、僕はスクールカーストの最底辺まで転げ落ちてしまったのだ。


 そう思ってしまう程に、氷の様に冷たいクラスメイト達の視線は、研ぎ澄まされたナイフの様なするどさで、僕の心を突き刺した。


 人の視線って、こんなにも簡単に人の心を傷つける事が出来るんだなぁ。


 痛くて痛くて堪らない。


 しかし、彼・彼女達の視線は、次の瞬間には、また各々のグループの仲間達へと戻っていた。


 僕程度の人間が、何かやらかした所で、周りの人達は何とも思わないのだ。


 良くも悪くも、現実は何も変わらない。


 僕のスクールカーストは、高くもなければ低くもない、相変わらずの位置に固定されている。


 僕はどうやら、自意識が過剰な様である。


 なぜだか、目から流れ落ちる涙と、漫画の様に綺麗に垂れる涎をハンカチでぬぐっていると、麻生来未あそうくるみが、僕の頬を両手で包み、くりくりとした目で僕を見つめる。


 なんだ?どうした?


 まさか、こんな衆人環視しゅうじんかんしの教室でキスでもしようっていうのか?


 まぁ、僕は別にいいけどね。

 

 今さっき、どんなに恥ずかしい事をしたって、僕のスクールカーストに全く影響が無いという事は証明済みなのだ。


 それに、何より、僕の唇は、昨日のあの感触を生々しいくらいリアルに記憶していて、それを強く求めているのである。


 心から、深く。


 『私の渾身こんしんの愛の言葉に対する返事が、間抜け面で【ふぁいっ!】って、君、私の事ナメてるの?』

 そう言う麻生来未から繰り出されたのは、優しいキスではなくて、パキケファロサウルス並みの渾身の頭突きなのであった。


 脳が震える。


 僕は、朦朧もうろうとする意識の中、麻生来未に目をやる。


 いつも通りのおどけた口調とは裏腹に、彼女には珍しい沈んだ表情を浮かべている。


 僕を見つめる麻生来未は、まるで世界をうれう乙女の様な、悲しい微笑を浮かべていた。



 

 


 

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