第22話

 坂上さんと全身全霊ぜんしんぜんれいの勝負が出来るのなら、名門校に入るという選択肢も、そんなに悪くはなかったのかもしれない。


 僕は今更ながら、電車で30分の名門校に入らなかった事を、ちょっとだけ後悔した。


 そういえば、黒田はどうしてこの学校だったのだろう?


 黒田とは、幼稚園の頃から一緒で、僕の思い出の1ページには、大体あいつが登場する。

 いつの間にか、あいつが僕の隣にいる事が当たり前になっていて、高校生になった今でも僕の隣に黒田がいる、という現実に、何の疑問も持っていなかったのだけれど、黒田にだって名門校からの誘いはあったはずなのだ。


 あいつも、家からの近さで進路を決めたのであろうか?


 まぁ、バカな黒田の事だから、きっとそうに違いない。


 そもそも、高校を選ぶ基準なんて、家からどれくらい近いか?っていう1択しかないもんな。


 心のモヤモヤが晴れるのに合わる様に、肩がいい感じに温まったので、キャッチボールを切り上げて、次のメニューに取り掛かる。


 基礎を重んじる坂上さんに、僕は良い感じのゴロを転がす。

 何回見ても、坂上さんの捕球姿勢は美しいので、永遠にゴロを転がしていたいのだけれど、心優しき坂上さんは自分の番が終わると、僕に同じだけの量のゴロを転がしてくれる。


 ちなみに、坂上さんの転がすゴロは、とても理想的なもので、僕のフィールディングは坂上さんと練習する様になってから、飛躍的に向上したのである。


 『安藤』

 『はい。何でしょう?』

 『お前は、ちゃんと俺についてこいよ』

 『それは、中々無茶な要求ですね』

 『無茶じゃないさ。命の全てを懸けて、血反吐ちへどを吐きながら努力すればついてこれる。お前ならな』

 どうして僕の周りの人達は、僕に血反吐を吐かせたがるのだろうか?


 僕は、出来れば血反吐なんて吐きたくはない。


 死ぬ時だって、老衰ろうすいでポックリと逝きたいのである。


 『出来れば血反吐なんか吐きたくはないんですけど、でもまぁ、坂上さんがそう言うのであれば、全力で頑張らせて頂きます』

 『別に、お前にその気があるのなら、ついてくるだけでなく、俺を超えてしまっても一向に構わないぞ』

 『それはまた…。そうですね。考えておきます』

 

 坂上さんを越えようなんて、考えた事もなかった。


 それは、あまりにも現実とかけ離れた、夢の世界のお話しの様なものだから。


 でも、あまりにも強大過ぎる力を有する化物。自分とは違う生き物なのだと思っていた坂上さんが、僕の事を同じ生き物として扱ってくれている。


 こんなに素敵な事は、今までの僕の人生に起こった事は無かった。


 今、この瞬間ときまでの僕の人生は、ただひたすらに、実体の無い怪物の圧倒的な力にしいたげられ、押しつぶされる、それはそれは筆舌ひつぜつに尽くがたい程に、惨憺さんたんたるものであったのだから。


 坂上さんの思いが嬉しいのなら。ありがたいと思うのなら。僕は、坂上さんを超える事で、その思いに応えなければならないのだと思う。


 たとえそれが、どんなに困難で、実現不可能な事だとしても、それに立ち向かわないなんて、僕の命をささげないなんて、絶対に嘘だと思う。


 きっとそれが、少なくとも僕にとっての、【生きる】という事の意味なのだから。


 坂上さんは、自分以外は誰も到達する事の出来ない圧倒的な高みで、1人、孤独に自分の理想と戦い続けているのだと思う。


 それは、凡人の頭では到底とうてい計り知れない、苦しみに満ちた地獄の日々であるのだろう。


 無人の荒野にただ1人放り出されて、目指すべき場所も分からずに、孤独な旅路を歩み続ける。


 そんな日々の中で、坂上さんは、誰かが自分の目の前に現れる日を待っている。


 その誰かに、僕はなりたい。


 この命の全部を懸けるのに、理由なんてそれだけで充分にたりるのだ。


 『坂上さん』

 『ん?』

 『僕はやっぱり、この高校を選んで良かったです。ここでなら、僕はきっと、自分でも想像出来ないくらい高い場所へと辿り着けると思うので』

 『そうか。それじゃあ俺も頑張って、その1段上に辿り着かなきゃな。後輩が追いかけたくなる様な格好良い背中を見せるのが、先輩の役目なんだから』

 今でも、人類史上最高に格好良い背中を見せてくれているというのに、これ以上格好良くなられたら、きっと、僕は坂上さんの事を直視出来ないだろう。


 UVカット率99%のサングラスを買っておかなければ。


 こんなにも格好良い先輩が、絵に描いたような教科書通りの凡庸ぼんようである所の僕に、期待を懸けてくれているなんて、にわかに信じがたい事だけれど、僕には甲子園に連れて行かなければならない人がいるし、【優秀な遺伝子を残せ】という母からの脅迫めいたミッションもあるのだ。


 余計な事を考えるのは辞めにして、今、この瞬間に出せる最高を、この命が果てるまで出し続けようと思う、僕なのであります。


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