第21話

 寝不足で、まだ完全には目覚めきっていない重い体にむちを打って、なんとかグラウンドに辿たどり着くと、どうやら僕が来るのを待ちねていたらしい坂上さんが、

 『遅いぞ、安藤。早くアップしてこい』

 と言って、僕の事をかせてくる。

 『はいっ。すいません。すぐアップ終わらせてきます』

 僕は、準備体操とストレッチを手早く済ませると、全速力でグラウンドを3周した。

 『お待たせしました』

 『本当に待たされたよ。まったく』

 『でも、毎日僕の事を待っていなくても、井上さんとか、毎朝1番乗りじゃないですか。井上さんとは、キャッチボールしないんですか?』

 『まぁ、お前が入部して来なかったなら、井上とキャッチボールする事もあったかもしれないが、今、現に、この部活にはお前がいるからな。井上とキャッチボールする事はないよ』

 坂上さんは、面白くも無さそうにいじくっていた硬式ボールを、僕に向かって投げてきた。

 『何で僕なんですか?』

 僕が構えた場所に、寸分すんぶんの狂いもなく坂上さんの放ったボールが収まる。

 相変わらずの、針の穴に糸を通す様に正確無比せいかくむひなコントロールである。

 『この部活で、俺について来れるのが、お前だけだからだよ』

 いつも通りの人受けの良い優しげな微笑を浮かべている坂上さんの、その温かな表情とは裏腹に深い海の底の様に静寂な心は、僕には、その欠片かけらすら読み取る事が出来ない。

 『たかがキャッチボールでもですか?』

 『キャッチボールこそだよ。自分より低い次元の人間と一緒にやっていたら、自分でも気づかない内に、そっちに引っ張られちまうからな』

 『でも、坂上さんについていける人間なんて、甲子園常連の名門校くらいにしかいないでしょう?どうしてこんな無名の都立高校に入ったんですか?坂上さんだったら、入る学校なんていくらでも選べたでしょう?』

 『そりゃあ簡単な話さ。もし名門校に入ったとして、万が一そこに100年に1人の逸材がいたりしてみろ。そしたらプロに入るまで、そいつとは公式戦で戦えないだろうが。勿論もちろん俺はプロになるけど、でも、俺にはそんな未来なんかよりも今の方がよっぽど大事なんだよ。高校野球の夏の予選で、そして、その先の甲子園で、そいつらと全身全霊ぜんしんぜんれいけた勝負がしたいから、だから俺は、この学校に入ったんだ』

 『坂上さんって、意外と変わった人なんですね。わざわざ困難な道を選ぶなんて、名門校に入れば、もっと楽に甲子園に出られるのに』

 『別に困難な道なんか選んじゃいないさ。名門校だろうが、無名校だろうが関係ない。結局は、俺のいるチームが甲子園に進むし、全国を制覇せいはするんだからな。だったら、より面白そうな道を選んで歩くのは当然の帰結きけつだろう?』

 少しの慢心まんしんも無く、ただ、この世界の上の自然の摂理せつりについて語るかの様に、坂上さんが言う。

 この人が言うと、こんなセリフも、ビッグマウスなんかでは決してなくて、1+1=2であるのと同じ様な、この世界の不変のことわりである様に聞こえてくるのが不思議である。

 『でも、自分で選んだのなら、この学校で誰も坂上さんについていけないのは諦めて頂かなくちゃ。こんな無名校に、プロ注目の超高校級の選手が1人いるだけでも、それこそ、100年に1度の奇跡なんですから』

 『そんな事は無いだろう。現に、超高校級の選手なら、今、俺の目の前に立っている』

 『はっ?えっ?僕ですか?』


 僕が超高校級なら、この世界は超高校級であふれてしまう。


 超高校級って、そんなバーゲンセールみたいに大安売りしているものなのか?


 まったく。坂上さんは本当に心から尊敬する凄い人なのだけれど、どうやら目は節穴ふしあなみたいだ。


 『それに、あいつも。まだまだ荒削あらけずりだが、今後の努力次第では、とんでもなく化けるだろうな』

 そう言って、坂上さんは、遠投をしている黒田の方を指差した。


 ごめんなさい。前言を撤回てっかいさせて下さい。


 坂上さんの目は、節穴なんかじゃないみたいです。


 でも、黒田は現時点でも充分天才なのに、ここから更にとんでもなく化けるのか。

 

 黒田が今のままの黒田であり続けられたなら、そう遠くない未来。この日本に、ベースボールモンスター黒田が生まれるという事であろう。


 相棒としては、心強い事この上無いのだけれど、僕も死に物狂いで練習にはげまなければ、あっという間に置いてけぼりにされてしまう。


 『それを言うなら、安藤はなんでこの学校なんだよ?』

 『えっ?』

 『お前だって、リトルでもシニアでも名をせてたんだろう?それこそ、名門校だって選び放題だったんじゃないのか?まぁ、この県で俺を敵に回したら甲子園に出るのは難しいだろうが、それでも、お前の代では楽に甲子園に出られたかもしれない』

 『この学校、家から近いんですよ。リトルもシニアも家の近くだったんですけど、僕を誘いにくる学校は、どこも家から遠くって、この県の学校だって電車で30分もかかるんですよ』

 『いやっ、30分くらい我慢しろよ。甲子園の為なら』

 『でも、現に、今、この学校には坂上さんがいるので、結果オーライですよ』

 『お前も相当変わった人間だな』

 『そうですかね?』

 『そうだよ。まったく、お前がこの学校に入ってくるんだったら、俺は大人しく電車で30分の名門校に入って、楽に甲子園出場を果たすんだったよ』

 大袈裟おおげさに肩をすくめるジェスチャーをした後で、

 『そろそろ肩温まっただろう?遠投するぞ』

 と言うと、坂上さんは声が届かない距離まで離れていった。

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