第20話

 『そろそろ帰ろっか?明日も朝練あるんでしょう?』

 『うん。そうだね』

 本当は、朝練なんてどうでもいいから、もう少しだけ麻生と一緒に居たかったのだけれど、僕は、その思いを何とか飲み込んだ。

 『ねぇ。また来ようね。今度は部活を無理矢理休ませたりしないからさ、時間が出来たらまた来ようよ』

 『うん』

 『どうしたの?今日はやけに聞き分けが良いじゃないの?』

 『また来たいから。こんなに綺麗な世界、初めて見たんだ。だから、僕はまた君と2人でここに来たい』

 『そっか。じゃあまた来よう。だから、そんな顔しないでよ。そんな顔されたら、私まで悲しくなるじゃないの。また明日だって学校で会えるんだからさ。まったく、君は本当に…。いやっ、何でもない』

 『僕は本当…なに?』

 『だから、何でもないってば。細かい事気にする男はモテないよ』

 『でも、気になるなぁ』

 

 離れがたい。


 麻生と別れた後で見上げた空は、嘘みたいに綺麗で、思わず僕は見とれてしまった。



 翌日。

 いつも通りの時間に目を覚ますと、眠くて眠くてたまらなかった。

 今まさに、成長期の真っ只中ただなかにいる僕には、眠っても眠っても眠り過ぎるという事はないのだけれど、昨日家に帰った後も、何故だか目がギンギンに冴えてしまい、一睡いっすいも出来ていないのである。

 僕は今、眠い目をこすりながら、朝練へと向かっているところなのであった。

 今朝も、僕の母さんは、相変わらずのかたよりきった優生思想ゆうせいしそうをぶちまけた後で、いってらっしゃいの代わりに【優秀な遺伝子を残しなさい】という言葉で、僕を送り出した。

 いつもなら、朝一番で母の口から飛び出す、起き抜けの頭にはあまりにも脂っこ過ぎる優生思想に、げんなりするはずの僕の心が、なぜだか今日は、ピッカピカに光輝いている。

 あやうく、【優秀な遺伝子を残すぞーっ!オーッ!】等と、1人で叫び出して、パトロール中の警察官に職質されてしまうのではないか、と思われる程に、僕の心はうきうきしている。

 『優秀なぁ〜遺伝子ぃ〜♪優秀なぁ〜遺伝子ぃ〜♪イエスッ!イッツァエクセレンスジーン♪』

 『おいっ』

 やばい、つい僕の創作曲【エクセレンスジーン】を口ずさんでしまっていた。

 警察官か?と恐る恐る振り返ると、そこには呆れ返った顔で僕を見ている黒田が立っていた。

 バカにあんな目で見られる僕は、きっと相当にヤバイ奴なのであろう。

 警察官に見つからなくて良かった。

 『なんだ、おまえか』

 『なんだとはなんだよ。大声でバカみたいな歌を歌って、俺、お前の事バカだとは思ってたけど、ここまでくると、なんかもう怖くなってきたよ』

 いつもの牧歌的ぼっかてきな表情を取り戻した黒田は、相変わらずセリフと表情がすれ違っている。

 『なぁ、黒田。お前って、この世界に満足してるか?』

 『何だよ急に?アホみたいな歌を口ずさんでるかと思えば、急にシリアスな顔で【世界に満足してるか?】って?一体お前の情緒じょうちょはどうなってるんだよ?』

 ヤレヤレとアメリカ人の様に大袈裟おおげさに両手を上げて、首を左右に振りながら肩をすくめる黒田の顔を、僕はじっと見つめる。

 『まったく、どうしたっていうんだよ?まぁ、そうだな、完全に満足しているって訳じゃないけど、そんなに悪くないとは思っているよ。誰だって理想と現実の妥協点だきょうてんを見つけて、この世界に何とか折り合いをつけて、自分が納得出来る様に生きているんだ。その範囲内での話なら、まぁ、俺はこの世界に満足しているよ』

 バカだから、何の考えも無しに、この競争社会を苦にもせず、自らの本能のおもむくままに、のんびりと、自分のペースで生きているのだろうと決めつけていた、黒田のその口から飛び出した妥協という言葉に、僕は驚きを禁じ得なかった。

 『お前、妥協してたのか?バカなのに?』

 『おい。なぐるぞ。お前が珍しく真面目な顔で聞いてくるから、真面目に答えてやったのに。あぁ〜、答えて損した』

 『ゴメン、ゴメン。ありがとう。参考になったよ』

 僕が頭を下げると、

 『何があったか知らないけど、あんまりくだらない事考えるのやめろよ。お前は本物のバカなんだから、自分の思う様に生きてりゃいいんだ。もし、お前が道を間違えたなら、その時は俺が軌道きどうを修正してやるから。まぁ、もう修正出来ない程に曲がりくねったお前の道は、俺にはどうする事も出来ないかもしれないけどさ、でも、型通りの綺麗に舗装ほそうされた道の上を歩く奴らでごった返すこの世界の中に、型にはまらないいびつに曲がりくねった道ばかりを選んでバカみたいに突っ走る奴が、1人くらいいたって良いんじゃないかって、俺は思っているよ』

 『黒田』

 『なんだよ?』

 『お前、もしかしたら気づいてないのかもしれないけど、お前の道も大概たいがい曲がりくねってるぞ。まぁ、でも僕はお前の曲がりくねった道、結構好きだけどな』

 『なんか、下げられてるのか、上げられてるのか、よく分からないけど、お前と話してたら、何か少し気が軽くなったよ』

 『何だよ。まるで気が重かったみたいな言い方するじゃないか?』

 『まぁ、それなりには…な』

 なんとも形容し難い表情を浮かべた後で、

 『いつの間にか学校に着いちまったな。さっさとアップ始めようぜ』

 と言って、カバンを置くと、僕とは違いジャージで登校している黒田は、アップがてら、グラウンドに向かって走り出した。


 

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