星空と蒼天のその後②

(椎名のやつ…俺が煮え切らないやつだとわかっていて)

 バスルームを出て、冷蔵庫で冷えたミネラルウォーターを手に、階段を上がって、自室にたどりつく。優衣の部屋は東向きだが、以前は「ゆいと」が下宿で使っていた部屋でもある。

 その部屋に置き忘れていたようなノートが出てきたのももう数年前か。

 ベランダで冷えた水を流し込んだ。夏の帳の風が駆け抜けていく。

 思い通りにならない。すべてが。

 そう思い始めたのは、いつからだろう。僕はいつ、このベランダの手すりに肘を乗せられるようになったのだろう。


「ののは小さいけどね」


 のの。誰もいないのに名前を口にすると頬が熱くなった。


 こんな状態で、デート?


「何言ってんのよ。あんた、誘っていったじゃない」

 椎名はそうせせら笑ったが、あれはののを過去から救い出したくてーーー


 思考を止めた。


 そう、須王野々花は思い出のお兄ちゃんを手離してはいない。心は見えないのに、そこだけは見えるから嫌になる。


 思い出の中でもがくののをどうやって救えばいい?


 目の前に一等星のベガが光った。…多分、ベガ。白鳥座の。

「のの」と呟くとまるで不審者になったような気分になる。

「ののちゃん」ああ、やはりこれだと優衣はため息を吐いた。


****

「なにやってんのよ。あんた」

 翌日。アンニュイになった後に椎名とお昼を摂るのは悪くないが、少々いろいろな心配がよぎる。

 椎名は購買で買ったスペシャルサンドイッチをほおばり、オレンジジュースを飲み干して顔を上げた。

「おまえ、太った?」

「~~~~~~~~~~あんたねえ!その意地の悪いところをののに見せろって言ってんのよ」

 見せられるか。

 言っておくが、ありふれた漫画のように「おまえとなら」とはならないだろう。椎名は優衣の恋人には合わないだろうし、椎名に自分は合わないだろうと思う。

「……うるさいな」

「のの、待ってるとおもうけど」

 ぱくり、とサンドイッチを平らげると、椎名は自慢のロングヘアを揺らした。いつまでたっても、伸ばしたままの。

「のの、髪伸ばしてるの気づいてる?」

「全然」

 嘘だ。ののは、椎名の風体を意識している。天文同好会についてもそうだし、増えた部員の前でも、堂々とものをいうようになった。

「ののがおまえの真似するほど、リスペクトするとはね」

「違うわよ。のの、勘違いしまくる子だから。覚えてる?こんぺいとうの事件」

 覚えているよ、とは言わなかった。あの時は、野々花への気持ちを扱いかねていて、どうにも自制が聞かなかった黒歴史である。

「おにいちゃんにしがみついてるののが、歩き出した瞬間?」

 それは、椎名の偉業かも知れない。


「なら、俺の偉業は?」

「さあ? これからできるんじゃない?」


 ちらちら、と椎名が部室の入り口を気にし始めた。

 ガラスの向こうに、野々花の小柄な姿が見える。それも揺れているから、どうしようとか、困ったな、とか思っておたおたしているのだろう。


「ま、交代しますか」


「あ! 待って」


 ののが椎名を呼び止めたが「待たないわよ」と椎名は颯爽と出て行った。

 野々花は廊下に立ち尽くしたまま。優衣も(どこから聞いていたんだ、この子)と少々脳裏が混乱している。


 今なら言えるか。


 廊下のドアに隠れるきみと、机に座っている僕の距離なら。


『のの、デートしないか?』


 野々花が顔を上げた。


「あの……口空いたままでどうしたんですか」


 声が出なかった。「いや」と優衣は取り繕おうとして、牡羊座の性質が優衣を押し出した。


 どん、とは性格上いかない。こつん、と音を立てて、野々花を挟み込んでみる。野々花はさらに小さくなって、おずおずと優衣を見上げてきた。

 優衣はけっして長身ではない。それでもミニマムな野々花とは相性がいいと思う。


「好きだよ。そう言えたらいいのになって思ったんだ」


 余計な牡羊座のパワーを捨ててやりたい。こんな告白があるかい。優衣はせりあがる気持ちのままに、口にした。


「野々花、俺ともデートして、もっと俺を見てほしいんですが」

「はい……」


 誤解しないでほしいんだ。きみの思い出を取り上げるつもりはない。

 でも、僕は、野々花、きみと現在を生きていると分かり合いたいだけなんだ。


「デート、します……」


 変なデートの約束だけど、自分らしくていい。「じゃあ、どこに行くか決めようか」スマホをかざすと、野々花は春の花のように「はい」と微笑みを見せたのだった。





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