Epilogue 星空と蒼空

Epilogue-1 星空の青年と蒼空の少年

***


 星空の下、三人で夜風に吹かれる続けて、ようやく、現実に戻った気がした。むすっと野々花の腕を引く霧灯優衣と、それを遠い目をして見ている結翔。


「てっきり、あのおなくなりに……」

「それはそこの策士のせいだ。ったく、勝手に人をころすなよ。とんだ悪ガキだな」


 霧灯は何も言わず、空を見上げていた。が、時折片足が焦れたように地面をつついている。その背後で、野々花は結翔の話に耳を澄ませていた。


 逢いたかった我儘は今は静かに胸に揺蕩っている。それ以上に、暴走しそうな優衣が気にかかって、これが心にどちらが生きているか、の証明なのだろう。


「そうだな、そのノートだけを見れば、そう思うよな。僕の願いが詰まっていたし」

「逃げたかった願いの?」


 結翔は肩をすくめた。


「ののちゃん、誰にだってあるだろ。世界から逃げたくなること。逃げればなんとかなるって思い始めると、逃げたくなるんだ。僕はそのあたりが強かったらしくてね。何としてもやり遂げてやるって決死の覚悟をしてしまったから、歯止めが利かなくなった。きみのお母さんと、きみに何度感謝したか。「あなたのためにも」と言われなかったら、僕はここにはいない。そして分かった。思い切り、誰かの役に立つこと、それが僕の望みだったんだ」




 ――急がなきゃ。早く逃げなきゃ。くだらない大人になる前に。




 そう告げた表情は変わっていない。でも、野々花の胸は穏やかだ。あんなに逢いたかったのに、そこで拗ねているほうがやっぱり気にかかる。


「きみのお母さんとは、ずっと連絡を取っていたんだ。どうしても、取らなければならなくて。人生のどん詰まりから立ち上がって、色々やりたいことをやって、見つけたことだったから。そして、両親に飢えた僕を見守ってくれたのも、君のパパとママだ」


「え? ママ、知ってたの? パパも?」


 結翔は頷いた。


「僕は、今、アレルゲンの研究と栄養士として、この団体で働いているからね。たくさん勉強して、本も読んだ。資格を取ることに夢中になって、リスカなんかしてる暇はないって気が付いた。ののちゃん。この場所は、以前の「みんなのいえ」の後継団体がやっている事業でね。まだまだ、きみのような子供が社会にはいっぱいいる。今やっと、近隣のカフェやレストランにも協力をもらえるところでね。僕は、子供のために生きることで落ち着いたんだ」


 ちら、と霧灯が振り返った。

 霧灯は知っていたのだ。知っていて、結翔が消えたと野々花に思わせた。思わせぶりな言葉、態度、確かに嘘の子供だ。間違いはない。

 

 でも。

 ただ、優衣は我儘をしただけだ。堂々と、欲しいと声を上げてくれた。


(責めないよ)


 背中を向けたままの優衣の背中をそっと想う。

 小さく震えている羊のモコモコが見える気がして、野々花は目を細めた。


「――っと。僕はまだ勤務中だ。優衣にこんぺいとうを渡そうと思っただけでね。おかしいと思ったんだ。「彼女が欲しがってて」って。こんぺいとうを欲しがる彼女? 古風だなと疑問だったが、きみなら分かる。まさかと思ったけれど、僕は奇跡はあっていいと思うから、大賛成だ」


 霧灯と逆だ。

 霧灯は奇跡を信じないと断言したのに、結翔は夢と奇跡を信じるという。


「優衣、まだ彼女、じゃないだろ。あのね、俺の従弟は頑固でね。力づくで女の子を」


 また手が伸びて来た。

 ぐいっとやられて、野々花は結翔から、霧灯の背中に隠されてしまう。


「我慢なんねー」ぼそっと呟くと、優衣はノートを手に、ずかずかと結翔に歩み寄って行く。ばす、とノートを心臓のあたりに押し付けた。


「そもそも! あんたがこんなノートを書くから勘違いしたんだ。今日連れて来たのは、僕の心が揺らぐから。でも、あんたが生きていることを知らせたくなったんだ。今まで隠していたのに、出て来るんじゃねーよ!」


 霧灯の顔が、少し赤い気がする。

 霧灯はここで、結翔が生きている、と知らせようとしたのだろう。しかし、本人が出てきてしまった。胸中を察すると、なにやらこみ上げて来る。


「僕は奇跡は信じないよ。そうやって生きて来たんだ。でも、引き寄せる力はあるのかも知れない。――晴れてるし」


 空の雲がいなくなった。でも、月に陰りがあるから、明日はきっとお洗濯は無理。母親が慌てて乾燥機のフィルターを掃除して、野々花もお手伝いになるだろう。


「最高のデートじゃないか。ののちゃん、またおいで。優衣、泣かせるなよ」


「ふん」と霧灯は視線を逸らせて、ぼそりと「暴走しそうだ」などと嘯く。


 星空の下で、結翔と誓った言葉をののは思い出す。



 早く逃げなきゃ。くだらない大人になる前に。

 でも、頑張ろうと決めた。

 今、頑張るべきはなんだろう?


 霧灯が映る。


 ――奇しくも、同じような場所で、同じような星空。こんぺいとうだけがないけれど、もう、要らない。


 願いは溶けて、叶ったのだから。

 奇跡を信じたい。その野々花の願いは、叶って、星空こんぺいとうは、夜空に還ったのだから。


「お兄ちゃん、今度、星座盤、返すね」


 嬉しい。

 硬かった心がやっと、星空に向かって歩き出す。

 過去は過去、奇跡は過去と現実を繋ぐ架け橋だ。それ以上も、それ以下もない。



「まだ、持ってたのか」


 結翔は告げた。

「僕が遺した過去は、全部置いていきなさい」――と。


 野々花は今夜の空を忘れないだろう。


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