ブルーモーメントの終わりに

 都電がゆるやかに走る音が隠れ家の中でもかすかに聞こえ、とたたん、の震動が響く。外に出ると、空は瑠璃の星空だった。

 野々花の家の最寄から、「みんなのいえ」はそう遠くない場所にある。とはいえ、同じ「みんなのいえ」は取り壊されてしまって、減っているらしい。

 副都心線の開通や、新幹線のスピードで、容易に行けるようになっただけの話だ。


 確かに、昔は家から遠くて、病院のほうが近かった。サラリーマンの父親がその後二時間かかる単身赴任になったのも、全部治療費のためだった。

 母親も、パートを増やしていた時期もあった。


 野々花は完治はしていないが、それでも、病院から少しずつ離れるごと、父親と母親の負担も減った。


「これは食べられる。これは食べられない。ののは、これは食べられる」

「おいしそう」

「ほら、ちゃんと見ていてね。ののは、ママのお弁当は美味しい?」

「美味しい!」


 母親と勉強した日々が今となっては愛おしい。そんな風に結翔も勉強していたのだと思うと、また胸が熱くなった。

 恋の熱というよりは、未来への熱量だ。結翔が遺してくれた、温かななにかがじわりとやってくる。それを優衣と頑張れと、何かが応援してくれている気がする。


「懐かしい?」

 夜風に吹かれた春の宵闇。建物の姿かたちは変わっていない。しかし、野々花を憶えているとは思えないので、踏み入るは止めた。


「今は、難病の子供だけを扱っているらしいね」

「それで、小さくなったんですね」

「ほかには、子供の病気を扱う病院が増えたこと。医療が進んだことも大きいけれど、今は星のパワーを貰える元気な子供が増えつつあるんだって」


 時間は7時を回っている。夏の始まりの空は、ようやく暗く帳を下ろし始めた。

 ブルーモーメントは消え、星々の輝く時間だ。


「その、ずっと先に、慰霊碑があるんだ。お別れをしよう。ノートも返す」


 ――慰霊碑……。


 野々花はまたふらついたが、霧灯の手に触れると、態勢と心をしっかりと立て直した。これ以上甘えてはいけない。霧灯の手は、野々花をしっかりと支えてくれる。


「霧灯さん、椎名さんとは」

「――だから言っただろ。振られたって。お別れのデートだって言われたから、また騙しかと思ったら……」


 ゆっくりとした丘陵を登ると、暗がりに大きな石碑があった。花がたくさん飾ってある。


「お花、まだ売ってますね」


「買ってこようか。結翔が好きな花は、チューリップだった」


 専用の花屋はぎりぎりだったが、小さなブーケを専用に置いており、野々花と、霧灯で一つずつ献花することになった。

 空は珍しく晴れて、眠る子供たちを安らかな空気で包んでいる。


「外国だと、自分で命を捨てると、埋葬できないんだって」


 しゃがんで、花を添えて、手を合わせた。



 ――あなたに、逢えて、良かったです……さよなら……こんぺいとうは、もう要らない。いっぱいの想い、そのなかには、きっとあなたへの想いもあったと思います。でももうここに置きます。

 優衣と、未来を進むと決めたの。


 お兄ちゃん、あのね。さっきのデザート食べていたらね……。





「ののちゃん?」

「あ」




 手を合わせた途端、石碑が喋った……はずはない。霧灯はしまった、という顔をして、振り返った。


「予定より、早く終わったから来てみれば……優衣、これは聞いていないよ」


 驚きで声が出ない前で、霧灯は「ほら、逢えただろ」とそっぽを向いている。


「し、死んだって……ノート……」


 目の前の男性は、子供を抱いていたが、笑顔は変わっていない。タイムトラベラーはわたし? ぐるぐるする視界で、野々花は優衣を振り返った。


「ノート……」

「ノート? ノートってまさか! アレか!」


 ぎろっと霧灯を睨んでから、その人物は照れ臭そうに野々花に向いた。


「優衣の好きな子って、ののちゃんか。大きくなったね、ののちゃん」

「だって、……逃げるって……逃げたんじゃ……」


 結翔は、懐かしそうに空を見上げた。


「逃げようとしたさ。でも、飛び降りようとしたら、すごく星が綺麗で。なんか、手にしたくなって。そうしたら、急に馬鹿らしくなったから、逃げることから逃げた。きみと約束したはずだ。がんばろうって。そう言えなかったら、逃げていたよ」


 説明しながら、結翔は霧灯を首根っこした。


「どこでこんなノートを掘り出したんだよ、きみは」


「って……! あんたの部屋だよ。下宿させて貰った時に、見つけたんだよっ。泣いていたら、おばさんが「あの子、しゃあしゃあ生きてるわよ」って、感動を返せ! そこに書かれている女の子が可哀想で読み進めたんだ、道連れになってんじゃねーかとか……あんた、作家になればいいんじゃねーのか!」


「無理だな。俺だけの罵詈雑言だ、それは。――ののちゃん、大きくなったな……御礼をずっと言いたかったんだ。ははは、変わってない。コミカルな表情して。そう、僕は生きているよ。こんぺいとう、どうした?」


「こ、こんぺいとうは……あの、大きくなって、嬉しいことです……」


 なつかしさと、安心と、探していたものへの気持ちが一気にあふれ出て、野々花はどうしようもなくなった。


 同時に、霧灯への感謝も溢れて、どうしようもない。――と、霧灯が掴んでいた手を離してくれた。


「ちょっとだけだよ」とささやきつきで。ちゃんと、心は分かっているよ、と言わんがごとくに。野々花は飛び込んだ。ずっとずっと大きくなったお兄ちゃんに。野々花も大きくなったのに、やっぱりあの時と変わらない。


「おにいちゃ……のの、こんぺいとう……」


 不思議とそれしか出てこない。野々花と結翔を繋ぐものは、数えるほどしかないのだ。


池に飛び込んだ霧灯さん、椎名と言い争う霧灯さん、夜、待っていてくれた霧灯さん、毅然と叱った霧灯さん……。

 ベランダで、泣かせてくれた、霧灯さん……。


 こんなに優衣のほうが、有利だ。恋に有利も不利もないけれど。


「やれやれ、またおねだりか。優衣に渡してもらおうと思って、買ってあるけど」


 昔よりスマートになった瓶に目が釘付けになった。しかし、つかつかと歩いて来た霧灯が、野々花の手を引いた。それを見た結翔は、くっくと笑って続ける。


「クールな霧灯優衣の、意外な一面か、いいモノを見せてくれるよ」


 見た覚えのない笑い方だが、あの暗黒ノートの結翔だと思うと、納得がいく。

 無理して微笑むより、ずっといい。


「もう、要らないみたいだな。星空こんぺいとうは」


 くっくと笑って、結翔は会話を続ける。空は満天とは言えないが、僅かな星々が輝き出した――。

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