ブルーモーメントの中で②
***
――両想いだもの。
世界広しと言えど、こんな言葉は想像していなかった。野々花は言葉が出ないまま、椎名をじっと見つめた。
「教えないわよ。わたしにも、プライドがあるから」
プライド。
この言葉ほど、椎名に似合いの語句はないと思う。もちろん、椎名はかつて大きな間違いをした。こんぺいとうを池に投げ捨て、霧灯に冷たく言われることが償いだと謂わんばかりに。
「そんなはずないと書いてある」
「うん……椎名さん、以前、わたしが言った言葉、憶えてる?」
――タイムトラベラーって信じますか。
「うん? 何だったかな」
「……タイムトラベラー……」
椎名は「ああ」と目を遠くにして、ちらりと上を見やる。言葉を探すようなそぶりが多いのは、吟味しているのだろう。野々花を傷つけないように。
気を紛らわせるように、椎名は部屋を歩き回り始めた。
「今なら、信じるよ」
その理由を、椎名は決して教えてはくれなかった。その椎名の姿に、「教えないから」と結翔のことを頑なに隠した霧灯が重なる。
なぜ、隠すのだろう。過去になったひとなのに。ドラマとかそうじゃない? 無作為に心を引き寄せようと、一生懸命なヒーローだっているのに。
暴走羊のくせに、ブレーキも持っている。
「信じたから、霧灯とあんたは両想いだって気づいたんだもの」
「それはないです。だって、嘘だって。嘘にしてくれって言っていたのに」
「言ったでしょ。霧灯は嘘だって言っちゃうんだって。あたしもどうしちゃったのかな。霧灯があんたを見てる目、優しくてやっぱり好きなの。でも、あんたは霧灯を見ているようで見てない。だから奪ってやろうと思っても、霧灯はあんたしか見てないし。この服で落とせるとも思わないけど、あいつがサメの前で青ざめる顔で、帳消しにしとくわ」
「え? まさか今から?」
椎名は頷いた。
「うん、駅前で、待ち合わせ。どんな流れになるかはわからないけど、ね」
にっと歯を出して、笑う椎名は可愛かった。それより、今日だとは思わなかった。霧灯と、野々花も今日約束をしている。
「駅前で、待っているよ」
――どっちも同じ日に約束するって、何を考えているのだろう。
椎名を送り出すと、空は泣きそうな色になっていた。
「なに、考えてるんだろう」
行かないから。駅前なんか。
「のの、おしゃれして、デート?」
せっかく決めた服を脱いだ。椎名の後に、野々花とデートを決める暴走羊なんか知りません。部屋着に着替えて、掃除を始めた。
お昼を食べていたら、雨。すぐに上がって、蒸し暑い。野々花は部屋にいた。コチコチ時間が過ぎて、三時を回った。
今頃、椎名と楽しく過ごしているなら、それでいい。心臓がナイアガラの滝になるなんて御免だし、もう、思う存分過去の結翔に想いを寄せることもできる。
いつもそうして来た。出会うまでは、がんばろうと……。
タイムトラベラーでも逢いたいと。
机に座って、野々花は揃えた拳に、滴を落とした。
「もう、がんばれないよ」
今、頑張ることは、霧灯と椎名を応援することしか残っていない。もう、役目を果たした霧灯は、自分の道を進むだろう。
もう、やだ……。
綺麗になった部屋に、おしゃれ着が野々花を待っているように揺れた。
――ぽーん、と時計が4回なった。
四時だ。どうしよう。どうしたらいい。
駅前に行って霧灯がいなかったら? 俯いたところで、また父と母の会話が聞こえて来た。
「あの子、ちっとも出かけないのよ。まだ、怖いのかしら」
「ママ、考え過ぎだよ」
「だって、あの子は普通の生活も難しいのに。お友達とレストランとか、どうしてあの子だけ、そんな普通が楽しめないの?」
「ママ。普通普通と言い過ぎだ」
聞いていられない。
慌てて帽子と、決めた服に腕を通す。
いつまで親の笑顔を護れるだろう。ねえ、安心して。お出かけ予定はあったんだよ。でも、もう間に合わないよ。
野々花の家から、駅までは20分。バスが捕まらないから、もっとかかる。椎名さんと上手く行って、わたしは笑えるだろうか。
野々花は目を瞑って、バスの中で震えていた。
『嘘だったんだ、そのノートを渡すために』
言葉を思い出して、涙が止まらなくなった。二時間も遅れて、もっともっと霧灯を傷つける、酷い少女がガラスに映っている。
「わたし、どうしたら……」
ふっと微睡むと、隣にふわりとした手の感触を憶え、目を開ける。
(ののちゃん、さあ、いこう)
タイムトラベラー信じますか?
「おにいちゃん!」
ゆうれい、信じますか?
「あのね、のの……ののは……あの……」
のの呼びはやめよう。そう決めたのに、野々花は碧の風の前で、やっぱりのの、と自分を呼んでしまう。
「霧灯さんが、好き」
(そう)
ふわりとした風がバスの中を通り過ぎる。もう逢えないと思って、野々花はシートから飛び降りた。
「お客さん、騒がないでもらえますか」
運転手のアナウンスに、野々花は目を覚ました。
お喋りに夢中だった老夫婦がちらちらと視線を逸らせている。
騒いで立ち上がったところで、夢から醒めた。
そこは元の世界だった。残酷で、優しい。野々花が生きている空間だった。
風が眩しくて、目を凝らしたら、そこはもう駅前で、あわてて野々花は飛び降りた。
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