*第四章ー10 *存在感の翼

****


 どうせこの世界からは逃げるんだ。ガキの我儘くらい、聞いてやれば、神様も翼をくれるかも知れない。


 僕はそう思って、ガキの奴隷になる遊びを始めた。どうせガキなんだから、たいしたことは言ってこない。ほら、こんぺいとうのおやつだって。はいはい了解。

 ところで今日も診察だが、手首をやって逃げたら今度は養護施設に閉じ込められた。


 そうやって隠すんだな、オヤジもお袋も。


 そしてあのガキ……ののかというのかな。のの、変な名前。自分のことをののと呼ぶ。母親から聞いて、面倒なことになったと思った。大豆と卵白はだめなんだって。


 ふうん。


 死なれては目覚めが悪いだろが。


 ――図書館に行くか。






 無理だ。

 あのガキ、自分のことを分かっていない。母親に相談すると、母親は一緒にレシピを考えようという。

 面倒くさい。

 それに「貴方のためにも」ってなんだ。あなたはグランドマザーかなんかですか。




***




 ののちゃんと呼ぶと笑う。僕がどんな人間か。見抜いていないのだろうか。いいや、僕は知っているんだ。きみはとっても優しい子。だから意地悪を言ってやる。

 はやく、世界から逃げなきゃ、ののちゃん。一緒にお兄さんが連れて行ってあげようか?


 寂しいから一緒にいこうよ。


***


 ののちゃんが検査をすると聞いた。もうがんばれ、としか言えないよな。しかし、かかった材料費は、請求したい。そういえば、手首のことを忘れていた。明日辺り、医者に行くか。心を視られても、もはや抵抗はない。ののちゃんの肩で泣いたからな。かっこ悪い。ガキの前で泣いた。だから、僕はここで死ぬのがいい。潮時だ。みなさまさようなら。


*****



(うーん……ところどころ痛い文章だな……しかし、わたしも痛かったですね)


 あの頃の幻想が崩れていく音に、野々花は何度も目を背けては、視線を戻した。

 やっと、世界の色が見えた気がする。

 足は震えているけれど、確かな存在感がある。逃げなきゃの意味はこんなにも存在感のあるものだった。


「最初読み始めた時、恐ろしかったよ。そのページ、破られてるんだけど、多分彼が破ったんだろうね。思うまま書き散らしてたらしくて。ちぎれたページが残ってた。でも、それを捨てたから、良心はあったのかな」


 野々花はまた、最初から結翔の生きた軌跡を目で追った。


 母親のひとことで彼は少し変わった気がする。でも、この世界は結翔にはあまりに残酷だったのかも知れない。


 逃げたいと思った元凶があるはずだ。


(まさか、ママが知っていたとは……でも、ののには教えなかった。おにいちゃんに逃げようって言われたら)


「泣かないよな きみは」


 陽が沈む直前の空に優衣の呟きが伸びて消えた。


 

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