*第四章ー9*死にたがりのピエロ

***


 僕はこの世界から逃げなきゃと思った。急がないと、くだらない大人になる前に。




 一文が否応がなく目に飛び込んだ。それだけで、野々花にはこれが誰の記したものか、分かってしまった。


 かつて、この言葉を聞いた覚えがある。呪文のように、結翔が繰り返し唱えていた。


「どうして……霧灯さんが」


「さあね。その付箋のとこ、憶えがない?」


 さわやかな風に、ふわりと乗る声。野々花は水色の付箋のページを開いた。





 今日も退屈な診察だ。いちいちまた、他人に心を覗かれるのは勘弁してほしい。絶対に勝ってやる。カウンセラーに勝つには僕が僕のまま、この世界から逃げることだ。僕はその手段を考えている。もうお金も要らないだろう。全部使い切ってさよならだ。でも、ちょうど680円のこんぺいとうしか買えてない。まあいいか。死刑囚の最期の饅頭よりかは。あれってぽくぽくして食いにくいらしいし。お茶も出ない。


 さて、どうやって逃げてやろうか。こういう時、現実的なことばかり思いつくから嫌なんだ。飛び込みも飛び降りも僕に相応しくない。でも、よこしまな考えを邪魔をするやつはいるんだな。


 病院へ行くか。




 神様が寄越した俺への邪魔か? 


 ――どうやら検査をするらしい。泣いていてうるさい。そうだ、このこんぺいとうで黙らせよう。

 ガキの母親に愚痴られた。

 大きな手術? 検査? 知るかよ。以下は、僕が口にした詭弁。こういうのも書いておいたら、僕の嘘の優しさが見えたりして。先生。脳天に落雷落とされたことある?


『お星さまがいっぱいきみを見ているよ』

『泣き止んだね。病院では静かにしないとだめだよ』

『悪い子なんだ? あげるよ。きみはいい子だよ』

『いえ、最後の小銭で買ったので』


 笑える。気分がいいうちに、今日も逃げるとするかな。つっても痛みで引き返すんだがやらないよりましだ。


*****


(これって……この、文章……)


 ノートから顔を上げると、霧灯は唇をへの字にしたところだった。


「全く呆れるほどに悪意しかない文章だけど、意外だったよ。昔から何を考えてるのか分からないとは思ったけど。綺麗過ぎるなと思った僕の考えは合っていた。きみの夢と幻想が気分悪くなってきたから、決心がついたよ。


真実は知ったほうがいい。それがフェアというものだ」


 霧灯は呟くと、オレンジジュースを啜った。野々花は顔を上げて、久しぶりに、霧灯と会話をまともに交わした。


「これ、わたしのことだ。この世界から逃げなきゃって言ってたの」

 

 霧灯はそんなことかと言いたげに口元を緩める。


「手首みただろ。リスカ。このノートはその時の更生のための記録だったんだろうね。僕はそれを返すべきだと思ったから。きみの中に戻っただろ。結翔は約束を護った」


 こんぺいとうが無くなったら会える。

 でもこんな再会は望んでいない。


「どうした?」

「」

 

 言葉が出ない。野々花と霧灯の視線が同じになった。


「告白なんか嘘だよ。僕は4/1産まれで、嘘の子供だから信じるなよ」


「嘘です」


「ののちゃん、そこは、嘘にさせてくれないと」


 野々花はむっと唇を噛み締めた。幼少から色々な気持ちを与えられた。療養の辛さ、廻りを振り回すアホの子の我儘、助けてくれた人たちの温かさ、そうやってたくさんの気持ちを集めて来たから、野々花には分かる。


 野々花はノートに涙を落とした。


 ここには、探し求めた結翔が生きている。こんなにも、文章に生気を滾らせて。文字や言葉は横柄でも、ごまかしがない。


「ショック、受けるかと思った。道化って言ったのは、このことだ」


「わたしが、勘違いばかりだから……このノートをずっと……」


「きみの大切な人の、遺品だと言えば良かった? 言えるはずがないよ」


 ――決定的な一言に、野々花は覚悟のときがきた、と目を閉じた。


 世界から逃げるとは、そういうことだ。もう、探しても出逢える奇跡はないと、霧灯は教えてくれた。


 優しくするのは難しいと、誰もが足掻いている。でも霧灯は優しいと思う。


「きみに真実を伝えて、過去を利用することは、僕には出来ないよ。でも、まさか、そこにヒロインのように書かれた女の子と、高校で再会すると思うか? しかも、僕はとてもそいつに似ているらしい。当たり前なんだけど」


 はふ、と霧灯は息を吐くと、「そこに出てる死にたがりのピエロは、従弟だから。続きどうぞ。とっておきのショーが始まる」


とバツが悪そうに呟いた。


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