*第四章ー8*夕暮れのベランダで

 霧灯は室内戻る気配もなく、ただ、外をっぼー……っと眺めている。それを野々花がじー.....と見ている。椎名は笑いをこらえて机に歩み寄った。


「オレンジジュースが好物の叱られ狼なら、「おいで」というまでベランダよ。いこじだから、ご主人様が呼び戻すまで戻ってこないかもね。ほら、これ、応援アイテム」


 椎名はオレンジジュースのパックを投げてくれた。


「どうして応援なの?」

 椎名は「なんだ?」という軽さで、首を傾げた。美人が眉をしかめると謂れのない迫力がある。


「椎名さん、分からない。霧灯さんが好きなんじゃないの?」


「好きよ。面白いし」


 ベランダで咳払い。にやっと笑って椎名は続ける。


「自分の恋も、好きな相手の恋も両方応援して何が悪いのよ。あたしの好きになったやつよ。ちゃんと相手してやって。あんた可愛いもの、良かったわね、厄介な奴に好きになって貰えて」


 ――こっちも理解不能。


「オレンジジュースがぬるくなるわよ」


 野々花はからりとベランダへの窓を開けて、叱られ狼に差し出した。


「のど、乾きませんか? 今日は暑いし。要りますか?」

「ああ、有り難い、冷えてる?」

「わたしがあっためたかもしれませんけど、まだ冷たいですよ」


 霧灯は笑って受け取って、野々花のいる窓の下に座り込んだ……らしい。なぜそこに座るんだろうと、なんとなく窓に背中を向けて、ストローをぷすと刺すと、野々花はすすり上げた。

 壁越しに、座っている霧灯の存在がすごく気になる。


「すごく、気になるんですけど」


 窓から顔をのぞかせた野々花を見上げた霧灯が、にやりと笑う。


「あっちへいけと言ったのは誰だっけ」

「あたしです」


「ののちゃん、きみ、それ、無自覚?」


 きょと、となった前で、霧灯はひょいっと窓に手を掛けた。


「先程を弁解しますときみが、ぎゅ、としたから、止められなくなったんですが」

「止める?」

「あ、そういうのはお兄ちゃん、教えなかったんだ。高校生と、小学生。……それはそうか。失敬。じゃあ、僕が教えてあげようか?」


 またぴょこんと耳が見えそうな雰囲気……やがて、霧灯はまたベランダに座り込んだらしい。静かになったらなったで気になる。ズズーとジュースを啜っていたら、「きみがこっちに来れば?」の言葉。


「もおお、気になりますっ」


 とたた……そんな足音で、野々花はベランダに回って、座っている霧灯のそばにしゃがみこんだ。霧灯とは、いっつも夕陽を浴びている気がする。1年と、2年が一緒に居られる時間は「夕方だけだよ」と言わんばかりに。


「狼のそばに寄っていいの?」

「一緒にジュース飲むだけです。もう、よく見たら、全然違う。タイムトラベラーなんて、失礼過ぎ。本当、ごめんなさいです」


 霧灯はふっと笑うと、「それなら」とゆっくりと想いを吐き出した。


「それならどんなに、良かったか。きみを泣かせるつもりはないが、泣いてもらっていい?」


「またそれはどういう理由ですか」


 霧灯は目を細めると、空を一瞥して、雲の流れを目で追ってから、声を上げた。


「椎名、僕のカバンを投げてくれない」


 はいはい、との声と一緒に鞄が飛んできた。その中から、霧灯は一冊のノートを取り出す。


「最初は、これを渡すつもりだけだったんだ。何度も言うが、僕は奇跡は信じない。それだけは憶えておいて」


 古いデザインのリングノートが出て来た。色もクリームだったのだろう表紙はすすけてしまったせいか、洗いざらしのタオルのような色で、時間が経っているのを証明するごわついた感触がした。


「ふるい、ノートだ」


「――偶然見つけた、という言い方は好きじゃない。どうやら、保護観察の合間に、日記をつけさせられたらしくて、読めば誰のものか……少々驚くかもしれないね」


「保護観察?」


「――自傷行為の場合、書くんだよ。分かるかい? リストカットだ」


 リストカット……。

 腕時計を外した霧灯の手首は綺麗だった。その手首を上に向けて、霧灯は頸動脈を指でなぞる。


 耳を塞ぎたくなった。しかしそれはダメだと優衣の双眸は小さく瞬く。


「何度も何度もやっていると、血脈が細くなり、ある日ぷつりと意図もなく切れてしまう。そして、こういう願望は遷るんだ。虐めとかがあったわけじゃない。こころの話」


 霧灯優衣はノートを手放した。ゆっくり離れる指先が静かに時を繋ぐようだ。


 このノートは、まさか。


 以心伝心の阿吽の呼吸で霧灯は小さく呟いた。


「そこには結翔の心が遺っているよ」

 

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