*第四章ー3*放課後、ミカン色のなかで

「須王、戻ろうか」


 ののちゃん、とは呼ばない配慮がさすが。


 ですが、肩の手! わたし明日から虐められたりしないよね.....?


 ドアを閉めるなり野々花は速足で出て行った霧灯を追いかけて、クラスを離れたところで、足を止めた。


 冷やかしだったのだ。最初は、その気だったかも知れないけれど、にこにこ手を振りながら、もう約束を護るつもりもなかった。

 野々花は一日笑顔でずっと待っていたのに。


 ――世の中には、ひどい人間もいるからね。


 またひとつ思い出した。優しさの合間に、結翔は時折そんな無力さにあふれた言葉を口にすることがあった。


 野々花は「あは……」と笑って見せる。誰かれ構わず好かれようとした結果がこれだ。


「失敗、しちゃった。あたし、見る目ないですね……」


 また髪が跳ねて来た。結局朝直しても、夜のぐちゃぐちゃのほうが強くて、ひょっこりと失敗が顔を見せる。


 ほらみろ、おまえ、失敗したんだぞ、とやって来る。


 霧灯がやにわに足を止めた。時折、動きが流水のようだとさえ思う。また歩き出した。空気が2人を追い越していくように。


「椎名が追い出したのも、僕狙いで来た天文なんかどーでもいいという感じの子だったよ。どうして、人がやろうとすることを、嘲ることが出来るんだろう。利用したり、できるのか。甘そうだぁ? っは。この僕のどこ見て言ってんだよ、締め上げてやればよかったな」


 霧灯は、「どうして」呟いてとうとう足を止めてしまった。


 いつもにこにこで、椎名の横暴すら受け流せる霧灯優衣はもうどこにもいない。1年どころか、数年以上も大人に見える霧灯が、今はこんなにもすごく近い。


 野々花より心を痛めている瞳があった。


「悪かったな、もめごとが多くて。反省してるんだ、これでも」


「あの、霧灯さん、わたしが」


「うるさいな。機嫌が悪い僕なんかに声をかけるなよ、ののちゃん」


「だって、辛そうなのに、喋ってくれているから」


 霧灯は一瞬驚いた表情をし、ふふんと嘲るような目になった。


「だったら、慰めてみれば? 僕は走り出すと、落ちるまで止まらない」


 野々花は、大きな背中に腕を伸ばした。ほんの短い間のつもりだった。


「……どういうつもりだよ」

「こういうつもりです」


 霧灯が野々花の回してきた手に手を重ねたことで、頬から不死鳥が何羽も何羽も飛び立つような、熱を憶える。

「ありがとうございます」

 あの子たちを怒ってくれて。それは言えずに頬を押し付けた。


「こういうつもり? ああ、じゃあ、こんな感じは?」


 手がなでなでを繰り返している。そのたびに、頬と髪が「ぼん」「ぼん」と湯気を立たせる心地になる。


 ――どうしよう、動けなくなった。


 放課後の階段の踊り場からは、今日も優しいミカン色の光が忍び込んでいた。


「ののちゃん、すげー、心臓の音。背中で感じるんだけど」


 ぼん、ぼん、はどうやら野々花の鼓動らしい。

 霧灯はやがて言った。


「そういうことされると、俺、期待しちゃうんだけど」


 ぱっと手を離そうとしたが、霧灯が抑えているせいで、動けない。「ふ」と笑うと、霧灯は野々花の重ねた手を重ねたままぐいっと引いた。

「わぷっ」背中にぶつかった野々花がかすかに悲鳴を上げる。


「僕はきみに好きだといったでしょ。――返事は? ののちゃん」


「へ、返事っ……の、のーです! のの、の、ノーですっ……」


 わたわたと答を背中にくぐもらせるも、霧灯の力は強く、手がしびれて来た。華奢なのに、掴む手は霧灯そのものの逞しさに、目を回しそうになる。


 心臓が「やっほーい」と飛び出てもおかしくはない。ドドドドドドドドの音に、霧灯は笑みを零した。


「きみの心臓は、ナイアガラの滝か。ドドオってすごいね。うーん、背中越しというのも性に合わないな」


 ぽそりとした呟きと同時に、手を離され、ほっとした隙に再び「おっと逃がさない」と細い手を掴み上げられた。



「返事は?」

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