*第三章ー4❇︎男の子の輪郭

***


 ――霧灯の言葉が脳裏をぐるぐるする。健康になったはずなのに、憶えのあるめまいがやってきた。霧灯が支えてくれなかったら、野々花は倒れていたかもしれない。


 それほどの衝撃の理由すら見つけられず。


「ずっと俯いていたせいだ。横になったほうがいい。応接室が近いから行こう」


「すいません」

「いや、僕も悪かったから。見つかったらちゃんと説明するし、きみが心配なだけだよ」


 悪かった?

 考えがまとまらないままの野々花を連れて、霧灯はソファのある応接部屋にやってきた。

 ソファに座ると、ぽん、と膝を叩いてみせる。

 野々花は飛び跳ねるようにして後ずさる。


「い、いいです」

「枕がないんだ。頭を低くしないほうがいいだろう。僕の膝ではお姫様に悪いけど」


 ぽふ、と野々花は横になった。嫌な感覚を思い出す。野々花は、よく倒れては、母親の膝に頭を載せて、診察を待っていた。


 成長期によくある貧血の類と、アレルゲン。それは先進医療と、栄養管理で改善はしたが、いつ、そうなるか分からない。誰もが恐怖を抱えるけれど、野々花は幼少にもう知っている。7歳で「もしかしたら」と言われた野々花は、今年15歳。奇跡はある。 


 奇跡はあるのに、霧灯は信じないと突っぱねた。


「霧灯さん。奇跡はあると思います。信じないのは寂しいです」

「例えばどんな奇跡? まだこだわってる?」


 野々花はなるべく動かないようにして、身を縮こまらせて、浅い呼吸を繰り返した。どっきんどっきん、だけじゃない。心臓がきゅうん、と音を鳴らしている。

 目を閉じていても自分の鼓動が分かるなど、初めてだった。


「いっそ、タイムトラベラーなら良かったのかな」


 霧灯は寂しそうにぼやいた。


「それなら嫌な過去も、塗り替えられるよね。きみと会うのが僕だったらとか……奇想天外の世界だけど、想像するだけなら悪くない」


 霧灯が喋る度に、きゅん、と胸が返事をする。めまいが激しくなりそうだった。


「椎名さんに、悪いです」

「僕と椎名が合うと思うかい? 無理だよ。僕は我が強い子は苦手だ。いくら好かれていても、それは無理だ。嘘をつくのは失礼にあたるよ。いくら椎名が僕の気を惹こうと横暴をしても、それは曲げられないね」


(霧灯さん、想像していたのと、違う感じ)


 もっと、優しく伺うような――……違う、それは結翔お兄ちゃんのほうだ。


 いつまで私は過去に恋をするのだろうと気が付いて、野々花は膝からそろぉ、と霧灯を見上げた。少年を抜けきらない双眸が野々花を逆さまに映している。


 霧灯はいつだって目を逸らさない。でも、結翔は違った。何か、後ろめたいものを抱えていたような、今考えると、霧灯よりずっと悲壮な表情が多かった。


 あの時、何かを抱えていたのだろうことだけは分かる。でも、今も昔も野々花は子供だ。大人の階段に足を掛けた結翔の内面など、分かるはずもない。

 同学年に近い霧灯のことも見えていない。

 男の子って何を考えているのかな。今も昔も謎だらけ。


「めまいは?」

「落ち着いてきました。すいません。あの、私の療養のことを知ってるんですか? それなら、……いえ、何でもないんです」


 ――きみが過去に僕を重ねていることが、気に入らない。言葉を思い出し、これ以上、霧灯に結翔との過去を重ねることは出来なそうだと、野々花は目を閉じた。


 でも、霧灯はそんな野々花を多分好きなんだと曖昧に告げた。


 ――多分好きって、なんだろう。霧灯はいつも、曖昧過ぎる。


(チョー、好き! って言いそうなのに)


 野々花はやんわりと想像してみた。もし、野々花があの時元気で、結翔に逢っていたら、もっとあの人は明るかったのだろうかとか、逆に今、ここにいるのが結翔で、「多分好き」と言われたら、野々花はなんと答えるだろう。


(答えたのだろうか、おにいちゃんになら)


 さすがに校内に二人きりは気が引ける。顔色を取り戻した野々花は、ゆっくりと起きあがって、頭を下げた。


 外はすっかり夜の色に変わっている。


「なんか、すいません……夕方から時間ばっかり取ってしまって」


「好きな子に時間を奪われたなんて思わないよ。僕はずっと崖に向かって走っている怒りの羊なわけじゃない。君を膝に載せながらも、色々考えていたし、無駄だなどとは思わないから大丈夫だ」


 霧灯は昇降口で、足を止めた。

 ひと気のない無機質な風が一縷、透かしのように伸びて消える。


 夕日の残照は微かに残っていた。


「思わないから、過去より今を見て欲しい――……いや、それは卑怯か」


 今度はくるりと向いて、ぱっと笑う。そのたびに、野々花の胸はつられたようにぱくんと音を立てて静かになる。


「きみが、最初に笑った時、憶えている?」

「え?」

「部室で、僕は言っただろう。「好きなものを語る女の子はこうも、可愛いのか」と」


 霧灯は視線を逸らした。


「自分で言っておいて、自分を驚かせること、あるんだな。脳が「言おう」と思う前に、洩れたようなもん。そんな穴のある人間ではないと思うんだけどね、僕」


 先ほどから、(霧灯さんってこうだったかな)脳裏が何やらあさっての方向へ向いている。椎名がきっかけではあるが、野々花は数日、霧灯をよく見るようにしてみた。


 タイムトラベラーの証拠を探そうなどと、アホの子の考えを抱えつつ、そうすると見えて来る。


 霧灯優衣という輪郭。そうでなければ、先ほどの衝撃には耐えられなかったかも知れない。過去の結翔より、霧灯は匂いが濃くて、存在感も大きい。色濃くなった時に、野々花は感じた。


 ――この人は、男の子なんだ、と。


 ぷくりと膨らんで来た自分の胸とは違う。手も、ほっそりしていても、どこかが違う。男の子女の子、その言葉がしっくりくる。


 結翔にそれを感じなかったのは、野々花が子供だったせいなのか。それとも、霧灯が大人なのか。


「うーん……」


 野々花が小さく唸ったのに気が付いて、霧灯は軽く笑ってくれた。


「心に命令はできないね。きみの中の過去に、僕は勝てないだろうな、きみがなかなか自分の星座を好きになれないことも、寂しいけど命令は出来ない。それに、女子に泣いて縋ることも、良いとは思えないし、自分の道は自分で決めるべきだと思っている」


 霧灯ははっと言葉を押し戻すように息を呑むと、「家はすぐ近く?」と聞いて来た。 野々花は頷いた。元々、実家に近いここに天文部があるのは幸運だった。


 ずっと星に囲まれて過ごしたい。その願いは密やかに続いていた。でも、女子には天文系の夢をかなえるのは難しい。どうしても天文系は男子に有利だ。夜の観察、というところで既に不安がある。


 それに、ひとつ野々花は気づいたことがある。


 天文や星座への想いがどこに繋がっているのか。皮肉にも、霧灯の「多分好き」の言葉が、禁断のドアを叩いてしまった。


 霧灯にときめくのは、霧灯を通しての、もう二度と逢えないであろう少年への恋だ。こんなこと、口では言えない。そして、それを霧灯は分かっていて謂わない。


 だから、「それは卑怯か」などと言う。


 ――一番ずるいのは、わたしなのに。


「頑張ろう、ののちゃん」

 同じ言葉、使うし。なんの偶然?


 言葉に顔を上げると、霧灯は「ね?」というように首を傾げて笑った。時折、やっぱりこの人は同じ人なのではないか、魂が生まれ変わったのではないか、などとやっぱりアホの子の考えが沸いてくる。


 ありえない中に、野々花はやっと答を見つけた。見つけてはいけない答だった。


 結翔は紛れもなく世界から逃げたのだと。その意味は一つしかない。

 

 包帯。「馬鹿なことをしたと思っています」確かに母親に結翔は告げた。

 

「頑張ろうって言ったのに」


 涙を取っておけば良かった。今、泣きたいのにもう涙の予備がない。霧灯は黙って夜道を歩き出す。


 まるで涙が溜まるのを待つように、静かに。

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