*第三章ー3❇︎ここで奇跡を信じたなら
霧灯の優しい声が聞こえるのに、野々花はしゃがみ込んだまま、動くことが出来なかった。途中に座っての声に、ようやく重い腰を上げて、ペタペタの椅子に座る。
待ち構えていたような心の疲れと、すこし時間が進んだ安堵感から、目蓋が降り始めた。
「聞きたくなったら声を掛けて」
「はい.....」
「いい子だね、ののちゃん」
違和感を感じさせない力のなさで霧灯は告げると、心配を忘れたように冊子を手にした。
***
ぽつりぽつりと蛍光灯が増え始める時間になった。室内の暗さも本格的になって来る。
野々花はようやく顔を上げた。真の前の折り畳み椅子には、足を汲んだままの霧灯の姿。机には参考書とペンが置いてある。
二年生でも、受験の準備をしているのは分かった。野々花がふて寝して、わずかではあったが本気寝している間、霧灯は勉強していた。
「ずっと、いたんだ……この人」
野々花はぐしっと目をこすると、器用にも腕を組み、足を汲み、そのまま目を閉じている霧灯を眺めた。
やはり、似ている。似ているなんてものではない。記憶の限りの結翔と同じシャツを着ている。制服が同じだ。顔は――正直パーツを憶えてはいない。
病室で何度も寝顔を見守ってくれた結翔。そばで野々花は安心して眠りについたことを思い出す。
そばに顔を寄せたところで、霧灯の睫毛がふるると揺れた。
「――んあ? ……ああ、転寝してた? 俺」
「すいません……お待たせしました……」
霧灯はがりがりと柔らかい髪をかき上げると、椅子を立った。
「まさか、こんな暗い中、病み上がりの女の子を一人にしてはおけないよ」
「え、私のこと知っているの?」
「知っているも何も。……星空のこんぺいとうが空になったじゃないか。そうして僕が呼ばれたんだよ」
言葉に野々花は両手で口を覆った。
「やっぱり、お兄ちゃん」
霧灯は「あー」と口元を片手で覆い、視線を泳がせる。
「まさか、その目は……ののちゃん、マジで信じてるのか」
輝いた声音の野々花とは対照的に、霧灯は厳しい顔つきになった。
「言っておくが、僕は普通に育った普通の人間だ。タイムトラベラーじゃないし、引き出しにタイムマシンも持っていない。未来から飛べるわけでもないけれどね、OK?」
冷水を掛けられたようだ。一気に現実に強制送還されて、野々花はぼんやりと霧灯を見遣る。
「でも、こんぺいとう」
「本気で言ってないだろ? きみはアレだな。一つの物事にしがみ付きすぎ。こんぺいとうの話は、君がしてくれたからだよ」
頬が熱くなった。「そ、そうですよね」と野々花はあたふた、もごもご、そわそわの3連発で動転し涙目になった。
「きみ、自分のことをのの、とは言わなくなったと思っていたけど、さっき出てたよ」
(ああもう、わたしったら)
恥ずかし過ぎる。野々花は「まだ、時折出るの」とぽつりと告げて、「え?」と顔を上げて見せた。
「でも、知ってるということは。そうだ、出逢った時、霧灯さん「また会えた」って」
「勘違いするなって言っても無駄そうだな」
灯は窓を開けると、うっすら見える夜空に視線を這わせた。
「すっかり、健康になったんだな、ののちゃん」
ふわっとする心地のまま、野々花は頷く。まるで、あの時の結翔が舞い降りたかのようだった。霧灯はやはり似ているのだ。翼があって、ふわりと飛びそうな結翔に。
懲りない。さっき霧灯さんは否定したのに。野々花は頑固な脳を小突いた。
――ふわりと、飛ぶ……。
自分の言葉が今度は気になる。
そう、結翔はいつか、飛びそうだと思った。
「まだこんぺいとうの瓶も、ボロい星座盤も持っているとは思わなかったよ」
「もう、こんぺいとうじゃないんですけど」
それでも持ってきた瓶を机に置いた。大きなドロップキャンディの詰まった瓶を「椎名さんが詰めてくれたの」と説明をする。
霧灯は呆れた口調になった。
「もっと、可愛いものがあったんじゃないのか。椎名は豪快だな」
「これが、優しさなんだと思います」
「ののちゃんは、ヨイコ過ぎるよ。うん、きみはもっと我儘でいいと思う」
「散々わがまま、したもの」
「いや、僕からみたら、きみは従順で死にそうなくらい、胸がぱんぱんに見える」
「もう、ののは……わたしはわがままになりたくない」
野々花は告げると、驚いている霧灯に、笑いかけた。
「幼少に、身体が弱くて、パパとママを振り回して……悪い子で……でも、こんぺいとう……」
「いや、僕が言っているのは、椎名に対して。理由を知っていた僕も同罪か。椎名を怒らせると大変だと思って、甘やかしていたのは認めるが、彼女には応えられない」
野々花はふるふると泣きながら頭を振った。椅子に座ったまま、首を振り続ける野々花に霧灯は跪いて、手を重ねてゆっくりと告げる。
それでも、野々花はふるふると頭を振った。これ以上我儘な悪い子にはなりたくない。でも、悪い子だと思う。タイムトラベラーなんかいるわけがないと知っていて、霧灯を重ねてみていたから。だから、神様が怒って、星空こんぺいとうを取り上げたのかも。
「ごめんなさいっ……」
「アクリル板ならなんとかなるから」
「違うの」
野々花は、いつかの椎名以上に涙を流して、首を振った。霧灯は優しい。だから、甘えた。可愛がって貰えて過去を取り返せた気になっていたのだ。最低だ。
その身勝手が、椎名を追い詰めている気がする。
「あたし、多分……」
答はゆらゆらと逃げ始める。野々花が捕まえようとすると、ぷい、と方向を変えて逃げる。ああ、だから、わたし、自分の星座が嫌い。泳いで逃げちゃうから。卑怯者のあの……。
――急がなきゃ。早く逃げなきゃ。くだらない大人になる前に。
急に言葉が甦る。野々花ははっと目を瞠った。逃げるとはなんだ。あの時、結翔はどこへ逃げようとしたのだろう。
「逃げるって言った……」
霧灯は微動だにせず、聞いている。その手は何度も首をもみ、しっかりと嵌めた腕時計が見える。綺麗な手首だ。
綺麗な.....。
脳裏がざらりと何かを透過する。
繋いだ手、肩車、いつもいつも見えていた白の……。
(そうだ、お兄ちゃんは、いつも、手首に包帯を巻いていた……)
いつもどこか、儚い気配を醸し出していたのは。手首に白い包帯を巻いていたのは。
池に飛び込んで風邪一つ引かないような、強い部分はなかった。
霧灯は、間違っても野々花の肩先で泣いたりはしないだろう。
「どうみても、僕じゃないだろ?」
諭すように、霧灯は告げて、野々花の前に立ち上がった。
「僕は現実派だ。自らこの世界から逃げるような臆病者じゃない」
「でも、すっごく似ているの! 否応なく思い出してしまうほどに」
「臆病だから、世界から逃げたくなるんだ。女の子の肩先で泣くほどにね」
霧灯は明らかにむっとした口調で告げて「僕も意地が悪いけどな」と付け足した。
「あのっ……」
「教えないからな」
え? と声が出そうになった野々花に「泣き止んだな」と肩をすくめて、霧灯は背中を向けた。
「僕は意地が悪いと言っただろう。社交的に見えるか? でも、裏では現実的で、腹黒いんだ牡羊座は。そうだな、きみが自分の産まれ星座を可愛く思えるようになったら、伝えてもいいけれど、僕にだって意地がある。奇跡は信じない。が信条なんだよ」
霧灯は付け加えた。
「ここで奇跡を信じたら、今までの僕は何だったんだということになる。あっさり真実を知ったきみが泣くのも、しゃくなんだよな」
「しゃくって……」
「癇に障るってことだ」
野々花は言葉を失いそうになった。心にぶっ刺さる言葉には覚えがあるが、霧灯の言葉は、容赦なく心の血を噴出させるような生気に満ちている。
「そのくらい、きみが過去を僕に重ねていることが、気になるし、気に入らない」
霧灯は振り返った。「多分」と前置きして、「いや」と言い直した後で。
「僕は、ののちゃんが好きなんだ、きっと。だから、今後はきみの心次第だよ」
霧灯は偽りのない目で、野々花に優しく言葉を向けたのだった。
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