*第一章ー4❇︎神様、奇跡と信じていいですか?

***


「これが昼間言っていたドームですか?」

「文化祭でやるはずだったんだけど、三年生が投げ出した名残だよ」


 劣化して撚れたドームが天上からぶら下がっている。目の前で「麦茶でいい?」とお茶を受け取って、野々花は作業中の部屋を眺めた。

 貼ってあるビニールはどうみても、あの袋である。宇宙をそもそもゴミ袋で表現するには無理があるだろう。


「これ、ドームなんですか」

「プラネタリウムの基盤。プロジェクターもまたおんぼろで。仕方ないから、蛍光塗料で描いたんだ。でも椎名に「まあ、蛍か光る虫にしか見えない」と言われて直しているところでね。これじゃ、執行部から許可が出ないだろう。みっともないから」


 確かに、目の前に下がっているドームは星座を描いたとは言いにくい。

 見栄えの悪さは明らかだった。


 野々花はボロボロの星座盤を取り出した。ぐるりと季節を合わせるとどうも、中心がずれているような気がする。


(わたし、結翔お兄ちゃんに聞いた時に、一番綺麗だと思ったの、地平線に沿った空に、刷毛で刷いたような星屑たちだったんだよ……ね)


 計算されたような、神話の配置。例えば、オリオンをやっつけたサソリは対局にいるとか、ポーラスター(北極星)は動かず、その周りを決まった星座が赤外線を頼りに輝いているとか。

 しかし、霧灯たちのプラネタリウム(もどき)は主要星座しか描いていない。

 そうじゃない。

 有名な星座だけでは、夜空の彩りは決して完成しない。星は大きいモノ、光が強いモノだけじゃない。見えなくても、無数の星があるからこそ、夜空を華やかに魅せてくれるのだろうし、生きる人間だって、そうだろう。

 アレルギー持ちで、泣いて過ごしてきた脇役の分、野々花にもきっと、何か輝けるものがあるはず。


「星って、見えるだけじゃないからかも」


 へ? とまだ蛍光塗料のペンを持っていた男子二名が振り返った。


「例えば」と野々花は一つの星座に歩み寄った。


「この、かに座? のそばには無数の星が集まっている星雲があるんです。だから、くっきりはっきりより、もっとぼんやりしてるほうが綺麗かも知れません。その中で、星座が出来る。あと、プロジェクタ? 見せていただけますか?」


 何か役に立ちたい。野々花は必死だった。もちろん、病気で色々迷惑をかけて来た中で、培ったどんな時も、前を向き続けることの力も背中を押している。

 いつだって、「頑張ろう、ののちゃん」の言葉は、心に響き、止むことはなかった。


 その言葉をくれた結翔を、またこうして廻って巡り合って助けることは、当然のような気さえする。不思議な感覚が、野々花の体内を駆け巡った。


 霧灯は頷いて、スイッチを入れてくれた。


「こんな感じなんだけど、星、詳しいの?」


 野々花ははっと気が付いて、返事に間を置いた。一呼吸おいて、「好きなんです」と笑顔で応える。


 霧灯は押し黙り、男の子にしては大きめの目をじっと野々花に向けている。綺麗な類ではあるが、どこか、幼い。ちょうど結翔を幼くすると近いだろう。

 正直、あの結翔の容姿や表情を思い出そうとしても、憶えていない。存在と、言葉、空気はこんなにも思い出せるのに。


「好きなものを語っている女の子、可愛いんだな……ふうん」


 ――ん?


 かすかに聞こえた男の子と大人の中間の声に、野々花はきょとんの表情になった。分かる。心に、「ぴこん」と音が響く時、大抵野々花は驚いた妙な表情をするらしい。


「あの、今、なんて」

「星に詳しいから、星、好きなのかって。照明落としてみようか」


 照明が落とされた教室はどうも没頭感覚が薄くなる。せっかくの映像マッピングも、天井の無機質なグレーカラーのせいで、くすんでしまうのだ。


「天井に、ドームを貼り付けて、マルく映してみたらどうなるんでしょう」

「脳が筋肉の俺らには考えもつかなかった」

「やってみるか」と作業班の二人は「うーす」と作業に取り掛かり、霧灯と目があった。


「ののちゃんさぁ……来たばかりで」


 やばい、余計なことした?! 副部長の霧灯さんの立場、悪くしちゃった?!


 焦った野々花は、あわてて元の位置、ドアの手前に引き返した。入部もまだなのに、口出しなんかして、元気になったからって、わたし、やり過ぎだ!


 でも、この寂しい夜空を見ていたら、結翔が教えてくれた天文知識で、何かできそうだと思った。


「すいません! さ、さっきの状態でも」


 言いにくい。病気を乗り越えて、前向く力と、もうひとつ。野々花は「折れない」心をどこかで拾ったらしい。あれほどの苦境を乗り越えた野々花には、それ以上の泣き言は出ない。

 生きるか死ぬか、回りに支えられて育ったことに、感謝している。


「……いえ……さっきの状態ではだめだと思います……」


 霧灯は「だめか」とまた口元を隠して、野々花を見詰めていた。やはり似ている。

 結翔もよく考え込んでいた。

 おにいちゃんは、逃げられたのだろうか。逃げたいと言っていた何かから。翅を羽ばたかせて。


「やあ、僕は実は未来から来ていたんだ。きみを助けるために」なんてボーイミーツガールなことにはならないだろうか。


 奇跡なんかないと笑ってもいいから、奇跡を信じたい。

 

 踏み止まる野々花に、霧灯は足早にやって来て、手を出した。その容姿では想像もつかない、がっしりとした力強い握手に、正直驚いた。

 か弱そうに見える霧灯に手を握られて、野々花はびくりと肩を震わせた。


「ありがとう、ののちゃん、頑張ろう」


 霧灯の口調は、あの時と全く同じだった。僕も頑張るからと。


(そうだ。結翔はわたしをぎゅっとして、この肩で泣いたんだ……思い出した。お兄ちゃん、泣いてた……)


 不思議な感覚。何が現実で、過去なのか、野々花の中ではマーブルになった想い出が、ゆっくりと頭を擡げ始める。


「いえ……御礼言われるの、二度目かなって……」


 ちがいますか。


 霧灯は何も言わなかった。言わなかったのだ。そうとも、違うとも。野々花の中で、霧灯はとうとうタイムトラベラーになってしまった。

 時間感覚が薄くなった。元の時間に戻したのは、霧灯の言葉だ。


「おーい。とりあえず、女王様がいないうちに、姫の言葉、試してみないか?!」

「らじゃーっす」

「あ、ののちゃん、これ、入部届けね。ちゃちゃっと書いちゃって。どんどん教えて、よろしくチェケラッチョ!」


「おまえらね、調子良すぎ」霧灯は「どうする?」と肩をすくめて見せた。


「ご存じの通り、女王様のお陰で女子が集団退部。素材はおんぼろで、予算は互いのお小遣いの寄せ集め。天文部のプレートは鼠がかじったせいで、手書きで、飾り付けの土星はいつの遺産なのか不明。僕は副部長の霧灯優衣。先輩呼びはこの高校はNG」


 野々花は唖然としつつも、ペンを取った。


「はい、霧灯さん、でいいですか? えと、ここに名前?」


「形式的なものだけど。プレート作る予算もないから、壁に名前書いとくね。苗字は? ののちゃん」


「あ、すおう、です。ののかは漢字で、野原の野に、花。真ん中に……」

「可愛くて可憐な字だね。きみの内面は向日葵クラスのでかい花、咲きそうだけど」


 並んで、夕陽の当たる壁に貼った名簿(もどき)に名前を書いて行く。可憐な砂葉の字の下に、少々斜めの霧灯の名前、鈴木くんと佐々木くんの特徴ある字に、野々花の丸っこくて小さい文字が恥ずかしそうに並んだ。


「お小遣い、なんて告げたけど、部長の女王様がお嬢だから、大丈夫だよ。ああみえても、椎名は多分……」


 言葉を切って、「よろしく」と霧灯は遠慮なく「飲み物買ってきてもらうか」と片目を瞑った。色々重なって、過去を引き出すような霧灯の表情に、野々花もせいいっぱい笑顔で頷いた。


 神様、こんぺいとうの奇跡と信じていいですか?


「はい! みなさんの好み、教えてくださいね」

 

 好きなことのために、一緒に苦しもう。それはとても尊いことだと、野々花はもう知っている。何か、できることがあるならば――そう思って名前を書いた。


 須王野々花、天文部(もどき)で頑張ります。過去の星空に、こんぺいとうをまき散らす勢いで。


 ――第一章了。

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