実に美しき狂乱の宴(1)
華音はスカートの裾が乱れるのも構わず、だだっ広い新ホールのロビーを全力疾走した。
ホールの脇を通り抜け、そのまま楽屋棟へ入り、三階目指して階段を二段飛ばしで駆け上がる。
立ち止まっている猶予はない。
華音は音楽監督専用控室の扉を、蹴破らんばかりの勢いで開けた。
だか、しかし。事の顛末を説明しようにも、呼吸が乱れてしまっていて、すぐにまともに喋れる状態ではない。
部屋の主は、綺麗な顔を不機嫌そうに歪ませて、腕組みをしながら長椅子に腰かけていた。
いつもの登場とは異なる華音の様子にも、悪魔な音楽監督は特にその理由を尋ねることはせず、開口一番、文句を垂れ始める。
「どこ行ってたんだよ、僕の衣装、ちゃんと掛けておいてくれよ。まったく、今日は正装だってあれほど言って――」
事情を知らぬとはいえ、いつものようにあれやこれやと構ってくる鷹山がやけに鬱陶しくなり、華音は持っていた音楽監督の衣装カバンを、持ち主に向かって投げつけた。
鷹山は不意をつかれ咳き込みながら、恨めしそうに衣装カバンを抱き締める。
「何するんだよ! 絶対、肋骨折れたよ! 君に慰謝料請求するからな!」
「い、慰謝料? なに馬鹿なこと言ってるんですか」
「百万円」
鷹山は痛がる素振りを続けながら、華音のほうへ片手を差し出してくる。
「ほら早く。なに、君払えないの? じゃあ、代わりに『何でも言うこと聞きます』って誓約書、書いてくれる?」
「イヤです。なによ、百万くらい……オーナーに言ってアルバイト代、前借りしてくるもん」
「ふざけるなよ。僕がそんなことを許すとでも思ってるのか? 君、最近口答え多すぎ。どうして素直にゴメンなさいって僕に謝れないのかな。ホント可愛くない、可愛くない、可愛くない!」
いったん火がつくと、鷹山の機関銃のような喋りは簡単には収まらない。
しかし、事は急を要している。今は鷹山に付き合ってじゃれている場合ではない。
華音は気を取り直し、次から次へと浴びせかけられる鷹山の罵詈雑言を振り払うようにして、負けずに言い返した。
「もう、可愛くなくてもいいですよ! そんなことよりも鷹山さん、大変なんです! 高野先生と稲葉さんが、今の今になってソロの順番で揉めてるんです!」
「揉めてる? どういうこと?」
鷹山の顔つきが変わった。ようやく、真剣に人の話に耳を傾けられる仕事モードに入ったようだ。大きな瞳を数度瞬かせ、しっかりと華音の顔を見つめる。
華音は急いで説明をし始めた。
「高野先生が、自分がシューマンを弾くって言い出したの。自分が第一部にまわるから、稲葉さんは第二部で、って。稲葉さんは突然のことで面食らってるみたいで」
「つまり、二人でシューマンを弾く『同曲異演』じゃなくて、演目に変更なしでソロだけを交換する、ということ?」
「でも、そんなのありえない……」
「いや、そうでもないよ。当日のソロ代役は、この業界じゃ珍しいことじゃない。ただ、今回のようなケースは僕も経験がないな」
こけら落としは一週間後でも三日後でも明日でもなく、今日これから開演予定なのである。
いくら世界的に活躍するピアニストといえども、簡単に了承できることではないだろう。
「鷹山さん、どうするの?」
すべてはこの男の決断にかかっている。
華音はすがるような思いで、鷹山の言葉をじっと待った。
「今から打ち合わせをするから、君は上手く誘導してくれ。稲葉さん、和久さんの順で、ここへ呼んでくれる?」
「ひょっとして高野先生の要望、聞き入れるんですか? そんな、今日これからの演奏会で稲葉さんがOKするはずないですよ!」
「提案してみなければ分からないじゃないか。だから、稲葉さんとの打ち合わせが先なんだよ。分かった?」
「そんな……私、もう一度高野先生を説得してみる」
華音は、目の前に立つ鷹山の脇をすり抜けるようにして、ドアのほうへ向かおうとした。
すると、すれ違いざまに、鷹山に腕をつかまれてしまった。
なぜ引き止められたのか、その理由がまるで分からない。華音は、腕を掴んだままの相手に思わず聞き返した。
「どうして?」
「和久さんは、どうしてもシューマンを弾いて聴かせたいんだよ。ある人のためにね」
「ひょっとして――――仁美さん?」
鷹山は首を縦に振った。
「和久さんがどうしてそういうことを言い出したのか、稲葉さんは当然分かってるさ。だから、それについてどうするかを尋ねるんだ。いいかい、順番を間違えるなよ? 稲葉さんが先、はい、Go!」
鷹山はようやく華音の腕を放して方向転換させると、ドアに向かって力強く背中を押し出した。
華音は鷹山の指示どおり、まずは稲葉努の控室へと出向き、音楽監督の控室へと連れて戻ってきた。
先程まで取り乱していたはずの稲葉も、今はいたって冷静だ。鷹山と握手を交わしてにこやかに挨拶をし、勧められるがままにソファ奥の上座に腰かける。
「どうなさいますか、稲葉さん?」
慎重に稲葉の様子をうかがいながら、鷹山は尋ねた。
天才ピアニストはしばらく黙ったまま、向かい合う鷹山と華音の顔を交互に見つめていた。
長い長い沈黙が、音楽監督の控室内を包み込む。
やがて、ゆっくりとため息をつくと、稲葉努は観念したように口を開いた。
「……冒頭は早めですが、オケはそれに引っ張られないように。フィナーレのカデンツァは高野君よりもゆっくりです」
稲葉は淀みなく答えた。
「稲葉さん……」
事態の打開は難しいとの予想を裏切って、稲葉努はソロ交換による曲目変更を、なんと了承してみせたのである。
「グリーグなら、なんとかなりますから。同じ曲を弾くんじゃ、今の高野君には酷なことになるだろうし」
「よろしいんですか、本当に?」
鷹山がもう一度確認するように尋ねた。
「僕はね、彼女が幸せなら、本当にそれでいいんですよ。高野君がそれを放棄したから、何か悔しかったのかな。ははは」
稲葉努は気品のある柔らかな笑顔で、鷹山に答えた。
遠い昔に思いを馳せ、稲葉は懐かしそうに語りだす。
「高野君も変わらない。昔っから、僕が本気で挑発しないと、素直に気持ちを出そうとしないんですよ。僕は死ぬまで彼女のことを愛し続けますから。彼女こそが僕のロジェールです」
「ロジェール?」
鷹山は軽く稲葉に聞き返した。
華音はここぞとばかりに、得意になって音楽監督に説明を披露する。
「『純潔な乙女』って意味ですよ、鷹山さん」
「どうして君がそんな言葉知ってるの?」
鷹山は不思議そうに首を傾げている。
華音が肩をすくめて稲葉に目配せをすると、彼は嬉しそうな笑顔をみせて、ゆっくりと頷いた。
「愛することができる人間が存在するということは、素晴らしいことなんですよ。たとえそれが叶わないものだとしても。……そばに一緒にいることだけが、愛じゃないですから」
華音は思わず目を瞠った。
天才ピアニストが口にした言葉が、もやもやとした華音の胸の真ん中を突き抜けていく。
心の中の何かが、脆く崩れ去っていくのを、華音ははっきりと感じた。
「久しぶりに、全力で演奏しなければいけないようですね。高野君の本気を引き出した以上は、正面から受けてたたないと」
稲葉の瞳は情熱に彩られている。しかしそこにあるのは『敵対』でも『挑発』でもない。
音を奏でる『同志』としての、力強い眼差しだった。
華音は稲葉を客演用の控室へ再び誘導した後、向かい合うもうひとつの客演控室へ出向き、今度は高野和久を呼び出した。
厄介事を引き起こした張本人である。
高野は説明も言い訳もせずに、いつになく硬い表情でじっと鷹山の顔を見つめている。
「楽ちゃん、俺は稲葉よりも全体的に速いかも。特に三楽章ね。弦がもたつくとちょっと辛いかなー」
すでに稲葉にソロ交換の了承を得ていることもあり、鷹山の表情には幾分余裕があった。
「大丈夫ですよ。芹響は和久さんのピアノの呼吸をちゃんと知ってますから。いくつか確認させてください。一楽章の終わり、オーボエが入るタイミングは――」
鷹山は淡々と譜面をめくり、気になる箇所を一つ一つ高野に確かめていく。
飛び交う音楽用語は、華音が知っている言葉もあれば聞きなれないものもあった。
一通り打ち合わせを終えると、高野は呟くように言った。
「俺だって弾こうと思えばあいつよりも上手く弾けるんだよ。シューマンは仁美ちゃんが好きだから、変に緊張するだけで……俺、あいつに告白とかプロポーズとか、まだ一回もしたことないんだ」
興味深い話だ。華音は気まぐれに聞いてみた。
「へえ、いつも仁美さんのほうからってこと?」
「いや……彼女からも特にこれといって」
煮え切らない高野の返答に、華音はさらに問いかけた。
「じゃあ、どうやって付き合って、結婚までしたの?」
「そんなの、成り行きってヤツだよ。何となく付き合ってたら子供出来ちゃったから籍入れてみた、ってだけのことだから」
「……いまさらだけど、高野先生ってばいい加減すぎー」
「いい加減? なのかな、やっぱり」
華音に真実を言われ、高野は意気消沈しうなだれた。頭を両手で抱え、何度もかきむしる。
そう、これが最初で最後。
高野和久という一人のピアニストの、人生賭けた大勝負である。
愛する人のために。
心から愛する人のためだけに奏でられる、美しき魂の調べ――。
「どうしよう楽ちゃん、ノン君……俺、ものすごいアガってきた」
突然、高野は身体を小刻みに震わせ始めた。
これまでは突拍子もないソロ交換劇のために、頑なな態度を貫き通していた高野だったが、いざその思惑が現実のものとなると、途端に不安にかられ始めたらしい。
しかし。高野が自ら追い込んだ状況は、あまりに厳しい。
「リハーサルをさせてあげたいんですが、稲葉さんを通すのが精一杯で、これ以上はどうにもできません」
鷹山は困ったような表情で、高野に告げた。
おそらく稲葉努も、一度きりのリハーサルでは到底、不安は払拭できないだろう。
とにかく時間がないのである。
「リハ無しは、覚悟してたよ。それにアガリ症は持病だ。俺、しばらく控室にこもって精神統一してるから。じゃあ楽ちゃん、本番でね」
高野は鷹山と華音に軽く手を振り、そのまま音楽監督控室を出て行った。
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