実に美しき狂乱の宴(2)

 その後、音楽監督控室は再び静寂を取り戻した。

 一仕事を終え鷹山は疲れたのか、ソファの背に身体を投げ出すようにして預け、ゆっくりと呼吸を繰り返している。


「和久さんの愛は、ピアノの旋律なんだよ、きっと」


 天井を眺めている大きな目をゆっくりと瞬かせながら、鷹山はそんなことを呟いた。


「そしてまた彼女も、和久さんの旋律を理解することができるんだ。いいかい? 言葉じゃないんだよ。音楽も、愛する心も!」


 華音は静かに鷹山のお喋りに耳を傾けていた。


「いがみ合ってお互い関わり合いたくないって言ってるわりに、お互いの奏法を細部まで熟知してるんだから。可笑しいじゃないか? 『僕は高野君より――』『俺は稲葉より――』ってさ。リハーサルで顔を合わせていないにも関わらずね。それにね、お互い信頼していないととてもできないよ。直前でソロをチェンジするなんて」


 鷹山は一通りまくし立てて幾分落ち着いたのか、今度は一転して静かになる。

 大舞台を前にして緊張し、情緒不安定になっているようだ。

 華音は見るに見かねて、鷹山の隣に移動すると、つかず離れずの距離を保って腰かけた。


「……高野先生、『御礼』だって言ってましたけど。つまり、仕返しってことでしょ?」


「いくら仕返しと言っても、演奏会を滅茶苦茶にして楽団に恥をかかせるようなことはしないよ。稲葉さんだって、できないことを了承しないだろうしね。お互いがお互いを認めた上での『仕返し』だよ」


 鷹山は空を仰ぐようにして、深々とため息をついた。そして華音の身体に自分の身体を密着させるようにして、ソファに座り直す。

 こんなときに――華音はわずかに身を引いた。

 しかし鷹山は本気で迫っているわけではなく、緊張を紛らわそうとじゃれているにすぎない。どこか不安げな瞳の色がそれを物語っている。


 ――大人のくせに、何だか子供みたい。


 そんな鷹山が何ともいとおしくなり、華音は引きかけた身体をもう一度彼のほうへ寄せ直した。

 そして、鷹山の膝にそっと手をかけると、その手を包み込むようにして鷹山の手が重ねられた。


 しばらくの間、二人は呼吸を合わせ、時間の流れに身を任せた。

 しかし。

 これは永遠に続かない、つかの間の安らぎの時間――。

 やっと、ここまで来た。

 こうしていられるのも、きっとこれが最後――華音は心のどこかで予感していた。


「これまでずっと、和久さんとのグリーグを練習してきただろう? ソロ変更になったお陰で、今日の最終リハーサルも稲葉さんとのグリーグとなる。と、いうことはつまり……シューマンは完全にぶっつけってことだよ。ハッ、どうしようか、芹沢さん」


「アシスタントに弱音はいている時点で終わってますよ、監督さん」


 くすぐったい。

 鷹山の笑う声が華音の身体に伝わってくる。おそらくそれは鷹山も同じだろう。

 情緒不安定な音楽監督は、ようやく落ち着いた兆しを見せ始めた。

 二人は笑いながら、鷹山の膝の上で繋いだ手を、何度も握り直す。


「君と仕事してるとね、どうもトラブルに巻き込まれることが多いけど、それって僕の気のせいかな」


「『僕は予期せぬハプニングが大好きだ!』って、言ってたくせに」


「僕、そんなこと言った? いつ?」


「二人でドライブしたとき」


「言ったかな……ハッ、言ったかもな」


 やがて鷹山は、名残惜しそうにしながら、華音の身体からその身を離した。


「さあ、そろそろ行こうか。やることは山積みだ」


「鷹山さん、あのね」


「なに?」


 思いがけず、鷹山が真顔で振り返ったため、華音は言いかけた言葉をあわてて引っ込めた。


「えー……っと、言おうとしてたこと、忘れた」


「君はおばあさんか? バーカ」


 鷹山は呆れたようにしながら、いつもの口の悪さ発揮させる。


「もう、バカなのは鷹山さんのほうだもん」


 華音は先に部屋を出ようとドアを開けた鷹山の背中に向かって、声を出さずに唇だけを動かした。


 ――大好き。


 ずっとずっと。

 たとえこの先、そばにいられなくなったとしても。




 華音は鷹山の後に続くようにして階段を下り、二階の楽屋棟へとやって来た。

 二階には、大勢の団員たちがくつろぐ中楽屋が連なっている。その廊下で、鷹山は大声でコンサートマスターを呼んだ。


「美濃部君! スケジュール前倒しでいくから、楽団員たちを今すぐステージに集めてくれ。今すぐだ!」


 その怒鳴るような大声で、一番近くにいた楽屋からすぐさま美濃部が顔を出した。


「え? あ、はい! 分かりました」


 鷹山の声がフロア中に響いたのか、美濃部が号令をかけるまでもなく、みな流れるようにそれぞれの楽屋を出て、ステージへと下りていく。

 そこへ、不審げな面貌で藤堂あかりが近づいてきた。


「監督、何があったんですか?」


「藤堂さん、君は僕から絶対に目を離さないで。いいね?」


 鷹山の抽象的な説明に、あかりはさらに訝しげに聞き返す。


「何があったのかをちゃんと教えてください」


「どうせ君はできないとか言うに決まってる。あいにく君の説教を聞いている時間はないんでね」


「決めつけないでください。監督がお決めになったことでしたら、私は意向に沿うよう尽くします」


 鷹山にとってそれは、予想に反した言葉だったらしい。心にもないことを――そう言いたげな鷹山は、蔑むような眼差しであかりを見た。


「へえ……僕はてっきり、あの男の言うこと以外、素直に聞くことなんてないと思ってたけどな」


「どう思ってくださってもそれはあなたの自由ですけど、それをわざわざ口に出して言うことですか? 私のことなどあなたには関係ないでしょう?」


 見るに見かねて華音が仲裁しようとすると、それよりも先に美濃部が二人の合間に入り込んだ。


「あかりさん、落ち着いて」


 すでに楽屋には鷹山と華音、あかりと美濃部の四人だけとなっていた。

 鷹山は白々しくため息をついてみせた。そしてようやく、淡々と事態を説明し始める。


「稲葉さんと和久さん、ソロを交換するから。演目に変更がないのが不幸中の幸いだ」


 美濃部とあかりの表情が変わった。事態を知らされて一気に緊張が走る。

 特に経験の浅いコンサートマスターは事の重大さに気づいたのか、どう動いてよいのか分からずに立ち尽くす。


「ソロ交換って……今の今になってですか? だって、そしたらシューマンのリハは……」


「やってる時間ないから、ぶっつけで」


「ぶっつけって……こけら落としの一曲目ですよ? ただでさえシューマンは出だしが怖いのに……」


 いつもは理路整然とした美濃部が、煮え切らない歯切れの悪い喋り方をする。

 鷹山は笑顔を見せると、美濃部の肩を叩いて、さらりと告げた。


「美濃部君、君はオーナーを捜して、臨機応変に対処するようにと伝えてきてくれ。打ち合わせしている時間はないから」


「ええ? 臨機応変って――そんな」


「大丈夫だよ。音楽の知識はなくても、運営面のことならあの人は上手くやってくれる。開演は予定通りの時刻でいくと、そう伝えて。いい?」


「はい、では行ってきます!」


 使命感を帯びて意気揚々と楽屋を出て行く美濃部を見送りながら。

 ふと気づくと、藤堂あかりは呆れ顔で鷹山の顔を見つめている。

 美濃部のあしらい方に、あかりは何か思うところがあったようだ。


「どうした? フン、やっぱり説教か?」


「やるしかないんでしょう? だったら、私たちも早くステージへ行きましょう。時間が惜しいですから」


「藤堂さん」


 鷹山は先に出て行こうとする美貌のヴァイオリニストを呼び止めた。


「美濃部君のことを支えてやってくれ――頼む」


「分かっています、監督」



 鷹山の後ろで一部始終を眺めていた華音は、えもいわれぬ気持ちで一杯になっていた。

 音楽監督として仕事をしているときの鷹山は、溌剌としていて格好いい。人の心理を読み、その扱いも上手い。

 どんな突発的事態にもすぐに対処できる瞬発力。そこには、華音にだけ見せる脆く崩れそうな繊細さは、どこにも見られない。

 鷹山にとって芹響の音楽監督は、まさに『天職』なのだろう。


 ――やっぱり、この人から『音楽監督』は奪えない。

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