若き音楽監督の悩み(4)

 華音が一人芹沢邸に戻ると、先に戻っているはずの高野の姿が見当たらなかった。

 華音は出迎えた執事の乾に尋ねた。


「ねえ乾さん、高野先生は?」


「今日はこちらにはお戻りになられないそうですよ」


 いつものように柔らかな物腰で、老執事は答えた。


「え? だって、明日は本番だよ? 夜遊びなんかしてる場合じゃ……」


「いえ、なんでもお店のほうで練習なさりたいということでしたよ」


 そんな乾の補足説明にも、華音の疑問は膨らむばかりだ。

 芹沢邸は平均的な一般家庭とはわけが違う。グランドピアノだけでも三台あり、そのどれもが美しい逸品だ。サロンに置かれたベヒシュタインを除いて、他の二台はコンサートにも耐えうる滑らかな音質で、調律などの手入れも行き届いている。高野本人が直々に作業しているのだから間違いはない。

 これまでも、こけら落としのための練習を、高野は芹沢邸のピアノで練習をしていたのだ。

 それなのに。


「練習って……どうしてわざわざ――」


 そこまで言って、華音はようやく思い当たった。


 ――あの、スタインウェイ。


 高野が当時婚約者だった元妻のために作らせたスタインウェイのピアノが、彼の店には置いてある。

 離婚するに至ったいわくつきの楽器だ。


【和久さんの未練は、そこじゃないんだ】


 鷹山が昼間そう言っていたのを、華音は思い出す。

 そして、高野は――。


【でも、これで本当に終わるんだなーって……】


 その最後を迎えるために、思い出のピアノに向かい、一人孤独に旋律を奏でているのだろうか。


 こけら落としは明日だ。

 太陽が東から昇り朝を迎えると、新しい時代の幕開けとなる華々しい祝宴が待っている。

 そして――。

 鷹山との同居の約束の期限も、明日のこけら落としが終わるまでだ。


 ――何が何だか、もう分かんない。


 とにかく今はアシスタントという仕事にだけ集中しよう――華音はなんとか気持ちを切り替えようと、努めて明るい声を出した。


「ねえ乾さん、鷹山さんの衣装ってどこ?」


「旦那様のお使いになられていたクローゼットに、ちゃんとご用意しておりますよ」


 老執事は嬉しそうに目元を緩ませた。




 いまにも雪が降り出しそうな、曇天の朝を迎えた。

 今日は芹響にとって、特別な一日となる。

 華音は朝食もそこそこにすませ、音楽監督の衣装の入ったスーツケースを肩から提げると、意気揚々と新ホールへ向かった。


 ホールへ到着すると、すでにエントランスでは数名のスタッフたちが忙しそうに動き回っていた。

 受付担当の若い女性スタッフが、華音に向かって意味ありげに目配せをしてくる。


 その視線の先を何気なく辿ると――。


 エントランスの奥にある休憩スペースに設置されたベンチに、男が一人座っていた。

 黒皮のコートに、白のスーツとグレーのシャツ。モノトーンでまとめているが、暖色系の内装で統一されたホール内では、その白黒のコントラストがとてもよく目立つ。


「稲葉さん!? 随分と早かったんですね。会場入りはお昼前って、聞いてたんですけど……」


 華音は慌てて、男のもとへと駆け寄った。

 そこにいたのは、本日の主賓であるピアニスト・稲葉努だった。

 華音は腕時計とエントランスの大きな壁掛け時計を交互に見て、現在の時刻を確認する。

 時計の針は、九時ちょうどをさしている。

 稲葉は涼しげなつり目をゆっくりと細め、肩をすくめてみせた。


「僕もそのつもりだったんですけど、昨夜遅くに高野君から電話をもらいましてね。話があるから、朝イチで会場入りしろって、脅されたんですよ」


「脅された? 高野先生にですか!?」


「ああ、そんなに驚かなくても大丈夫ですよ。ようやくやる気を出してくれて高野君に宣戦布告でもされるんだったら、僕としては嬉しいですから」


「はあ……そうなんですか?」


 稲葉努が好戦的な人間であることを、華音は高野から聞かされていた。実際それを目の当たりにし、華音は妙に感心してしまう。

 しかし、この好戦的なピアニストを呼び出した本人の姿は、まだ見当たらない。


「もう皆さんおそろいですか? 高野君が来る前に、先に赤城さんと鷹山君にご挨拶したいんですが」


「ええ。稲葉さんと高野先生の控室は、鷹山さんと同じ三階ですから、ご案内しますよ。オーナーは……まだ来てないかもしれないです。あの人、本業とかいろいろと忙しいみたいで」


 二人が連れ立って楽屋棟へ向かおうと、エントランスを横切ろうとした。


 そのときである。


「稲葉――」


 華音と稲葉の前に立ちはだかるようにして、高野和久が姿を現した。

 昨日のリハーサル時とまったく同じ服装だ。芹沢邸には寄らずに、自分の店から真っ直ぐホールへ来たのだろう。本番前だというのに髪はボサボサのままだ。

 稲葉と高野が顔を合わせるのは、芹沢邸での打ち合わせ以来、ほぼ二ヶ月ぶりのことだった。

 高野は、宿敵の顔を、冷ややかに見つめている。

 華音は固唾を飲んで、その様子を見守った。


「よかった、来てくれて。ここまで来て逃げられたら、どうしようかと思ったよ」


「逃げるわけないだろう。お前に言いたいのはひと言だ」


 稲葉は、ようやく本気を出したライバルの挑発的な眼差しに、満足げに目を細めてみせた。そしてそのまま、続く高野のひと言を待っている。


「俺が――シューマンを弾く」


「えっ? ち、ちょっと、高野君?」


 呆気に取られている稲葉に、高野は更にたたみかけた。


「稲葉は後半にまわれよ。お前が前半で弾こうってのがそもそもの間違いなんだ」


 こけら落としの演目は、第一部で稲葉努ソロによるシューマンのピアノ協奏曲、第二部で高野和久ソロによるグリーグのピアノ協奏曲、となっている。

 宣伝ポスターやチケットはもちろんのこと、受付で配布される予定のプログラムにも、そのとおり印刷されている。

 華音は目の前の二人のピアニストのやり取りを、ただ呆然と眺めていた。眺める他なかった。


「何を言い出すんだよ、高野君!? もうすぐ開演だっていうのに」


「俺を同じ舞台に引きずり出した『御礼』だよ。ゴメン、ノン君。そういうことだから、楽ちゃんによろしく」


「――よろしくって、そんな……嘘」


 華音の頭は真っ白になった。

 とんでもない事態に発展してしまったことだけは、かろうじて分かる。


「ちょっと待ってよ、高野君! 高野君って!」


 困惑する天才ピアニストは、足早に去っていく宿敵の背に向かい、必死に叫ぶ。

 しかし高野和久は歩を緩めることなく、右手を上げて、遥か遠くから背中越しに叫んだ。


「音楽の女神に愛されている天才ピアニストなんだろ、稲葉努は!」


 できないとは言わせない――そんな高野の挑発が、エントランスいっぱいに響き渡った。

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